“あなたは私の”

「お父さん」

 なんでそんな事になっちゃったんだか、全然見当がつかない。
「嘘つきなさい。酔っぱらったり、寝ぼけてたりなんて言ったら蹴飛ばしますよ」
「何でも良いけどさっきのだけはやめてくれないかな…?」
 そうそう、今日は凄く気合いを入れて来たのであった。スーツはちゃんとしつけ糸チェックも済んだ新品のセミオーダー、車もワックスかけたて。ワインはブルゴーニュ、香水はエゴイスト。
「センスが古いんですよ。おまけにスノッブなんですよ」
 耳年増の疑いが満載の顔色の悪い部下は、知ったかぶりを押し隠して偉そうに言った。自分はこんなに殺風景な部屋に住んでおいて。人の趣味に云々するとは生意気な小僧である。
 カップ焼きそばずるずる啜るのも止めて欲しい。余韻も何にもありゃしない。そう言うと若者はしれっと言った。
「仕方ないでしょうに。腹が減るんだし」

 事の起こりはブンビーが珍しく定時退社した本日金曜日の午後5時にさかのぼる。
 女子高生が持つような大きな折りたたみの鏡を上司がしきりと覗いている、というのは、あまり気持ちの良い光景ではなかった。
「…何浮かれてるんですかブンビーさん」
 するとブンビーはぐふふ、と含みのある笑い方をし、にやけ顔のまま、
「私のアフター5の事まで君に立ち入る権利はないよギリンマくん」
 何か腹立つ事を言い、変な鼻歌を歌いながら櫛で鬢をなでつけ始めた。
 いや、別に悪いと言ってる訳じゃない。ここは手洗いだし、身だしなみを整えるのは大いに結構だと思う。
「何かよっぽどうっきうきに良いご予定でも入っていらっしゃるんですか」
「あ・わかる?」
 皮肉は皮肉として認識されなかったようだ。にやにやしやがって。
 前例がないわけではない。知る限り何度もこういうの見たことがある。この人には学習能力がないのではなかろうか。
「あてて見せましょうか」
「なにたいした用事じゃないんだよ」
「またどっか…飲み屋か何かで知り合った女の子に会いに行くんでしょ?」
「うわ! 何で分かるのギリンマくん」
 分からいでか。
 ギリンマは値踏みするように目を細めると、改めて我が上司の顔を見た。やに下がっていることを差し引いても、今日は気合いの入り方が違うようである。眉のむだ毛抜いてあるし。スーツに至っては新調までしたらしい。意地悪くカフス辺りを見てみたが、周到にしつけ糸は抜かれてあった。よかったですねブンビーさん。新しいスーツ着てしつけ糸が残っているのほど恥ずかしいものはない。
 前は背中のベントのところを止めてあったしつけ糸が残ってて、それで振られたんでしたっけね。確かにキメキメの人がそんなだと醒める人は醒めるかも知らん。
「随分奮発しましたね」
 するとブンビーはぐふふ、とまた気味の悪い笑い方をした。
「そんなに見られちゃ照れるじゃないか。…惚れるなよ」
 惚れるか。

 一度席に戻って帰り支度をし、廊下に出たらまた鉢合わせたので、仕方なく一緒にエレベータに乗る。顔満面でにやにやしているブンビーはなんか人が違ったように見えた。
「…で今日はどちらなんです?」
「港の方のフレンチ。いいでしょ? 素敵でしょ?」
 港。…本社ビルから車で2、30分ぐらいだと思った。さてはこの人、車で来たな。湾岸道路を走りながらきざったらしく口説きでもするんだろう。わー面白い。だが酒好きなこの人がデート時に一滴も口にしないというのも不思議な気がした。
「酒? …そりゃもうちゃんとスタンバってますよ」
 じゃん、とか何とか言って取り出されたものは、ハトロン紙にくるまれたワインボトル。
「…なるほど。…連れ込む気満々ですか」
 家に置いてこればいいのに。
「だめだめ。それじゃシナリオ通りに進まないからね」
 曰く。例のフレンチで彼女だけにシャンパンか何かを飲ませておいて、しらふを保ったまま家に送りさ、さりげなくこのワインをプレゼントし、警戒心を払拭しつつ、上手いことやるという訳らしい。でもなあ。
 この人、いつも計画だけは綿密に立てていくんだけど、どうもそれに固執しすぎる傾向が。
 無論賢いギリンマはそんな私見はおくびにも出さなかった。
「まあがんばって下さいよ」
 今度こそ、とは胸の内で付け足した言葉である。
 ブンビーは君こそがんばりたまえ、などとまた腹の立つことを言い放つと、意気揚々と地下駐車場のオレンジのライトの中に消えていった。
「あ…おれ車じゃなかったんだっけ」
 あまりに呆れて、エレベーター下りる階を間違えたじゃないか。
 ギリンマは理不尽といえば結構理不尽な不平を上司に押しつけると、しぶしぶ1階ボタンを押し直す。
 
 こういうのに慣れてしまうというのは何だかひどく情けない。
 適当に夕食を済ませて、家に戻る。歯を磨くのは食後30分後までに済ませる、というのは数少ないパンクチュアリズムの一つである。お陰で未だに詰め物一つ無い。
 いつもならここでざっと風呂を使い、ぐだぐだな格好に着替えて寝転がり、テレビでも見るのだが、ギリンマが選んだのは割合かっちりしたカッターシャツとジーンズであった。カルフールで二束三文で叩き売られていそうな無地の黒い靴下まで履く。
 机に座って、昨日買った株式投資の本を開き、時計を眺めた。午後9時。
 そろそろかね。
 ジーンズの尻ポケットに入れておいた携帯電話を取り出して机の上におく。しばらく本に集中していたが、あに計らんやものの数十分で携帯電話が鳴り出した。
「…もしもし?」
 電話の主など着信表示など見ずとも分かる。
「…ああ。お疲れ様です。ギリンマです」
――お疲れ様ですじゃないよ!
 まず怒られた。
「…済みません。どうしたんですかそんな剣幕で」
 予想はおおよそついていても、聞いて差し上げるのが良き部下というものであろう。
 ところがそんな気遣いはあっさり無視された。電話の主はぐう、とかきい、とかうめいた挙句に、
――今どこ!
 口調はもはや疑問文ではない。どこにいようと出て来い、という剣幕である。
「…家です」
――駅まできて! 今すぐ!
 まただよ。半ば想定していた事態だから、さほど理不尽さは感じない。慣れというのは本当に恐ろしいものである。しかしながらこのようなものに慣れ親しむのは先ほど申し述べたとおりはなはだ遺憾である。
 はいはい、と言いたいところだが、言ったら確実に「はいは一度で良い!」と言われそうだったのでやはりやめておいた。  電話越しでも呆れた感じが極力出ないように、懸命に表情をひきしめる。そういうのになぜかやたらに敏感なのだあの人は。普段は空気読めないくせに。
「了解です。…20分ぐらいで着けるかと」
 上辺だけでもくそまじめにそう言って電話を切ると、ギリンマは一つ軽い溜息をついた。

「もうね、ホントにどんだけよ、ってね!」
「…はあ」
 案の定、すでにブンビーは相当できあがっており、駅の裏手の半地下のバーでくだを巻いていた。せっかくなでつけた金髪も、店の灯りが映り込むぐらい丹念に磨かれた爪も、こうなってみるとヒロインに振られる二枚目半の風情をいや増すばかりである。「卒業」の花婿の方とか、「雨に歌えば」の主人公の友達の方とか。
 まあそこまでお人好しであるかと言えば、必ずしもそうではないのがこの人である。かわいげはあると思うけど。
 アイスのミント・ティをストローで啜って場を持たせると、仕方なく聞いてみる。
「で? …当初の計画はどこまで進んだんです?」
「フレンチはオッケーだった。むしろかなり良い線行ってた。そりゃね、君も知ってると思うけど、あの店に行って落とせない確率の方が低いと言われる程の名店だからね」
 その店で落とせなかった人が目の前にいるのだが。
「彼女ったら、食事そっちのけでこっち見てるしね。話も弾んだし。もうばりばり脈有り風味なんだよ! それなのに…それなのにい…」
 がっと上がってきたと思ったら、今度はがっくり落ちる。見ていて忙しい。
「ねえ。君から見て、どう思う? 私ってそんなに駄目に見えるものなの?」
 この場合、男からの見た目というのはおそらく全然関係ないのではなかろうか、と思うのだけれども。それにこれでは具体的に何があってこんなにへこんでいるのかが見当つかない。
「……今伺った限りではどこにも問題ないようでしたけど。…たんにお持ち帰りを拒否されたんなら良くある話ですよ」
 そうだ。女性というのは無駄にじらしてうれしがる傾向がある。そのあたりは身に染みてよく分かっている。
「………もう二度と連絡しないでください、ってのはじらしてるの? ギリンマくん」
 そ、それは酷い。絶望的であった。

 何が彼女たちをそうさせる?
 詳しく聞いた所に寄れば、特段ブンビー側に問題はなかった…ように思える。とはいえ判断基準はあくまで自分なので、「ムリめの女子」がどう思うかはこの際脇に置く。それではすでにアプローチの段階で問題があったかどうかだが、思うにそういう子たちは問題のあるコマと時間を無駄にしようとしない。…と思う。
 もしかすると。それ相応の格好をして、それ相応の年齢でもあるこの人に、財力あたりの目星をつけて目測を誤っているのかも知れない。案外この人金持ってないからな。うちの会社、待遇悪いし。
 食事だけなら、という向こう側の最大の譲歩を、この人が大いに拡大解釈している、というのはあるだろうが、それにしたってこうも初回敗退が続くとかわいそうでもある。
 金曜の夜に散りにけり。
 当のブンビーはと言えば、今は助手席でうとうと居眠りをしていた。もう何度も踏んだ徹なので、今更怒りすら湧いてこないが、この人はこういうケースには必ず自分を呼び出すのだ。
 愚痴を吐き出す相手としては最適という事だろう。文句は言わないし、暇だし、なにより気兼ねがないのだろう。
 一度、呼び出されたからと言って素直に一緒に酒を飲んでくだを巻いたら、あっさり家に帰れなくなって酷い目にあったことがある。それからというもの、こういう場合には隣の酔っぱらいにいくら酒を勧められても、丁重に断ってしらふを保つようにしていた。どうせ自分が運転するんだから。
 ブンビーの家は確か一度大通りに出て北の方に行かねばならないはずだが、もう電車もバスもない時間で、上司の家に上がり込むのは気が引けるし、地理的にも自分の家の方が近い。それにこういう際に一度自分の家に帰って、この困った上司を泊めるのはすでに定石と化している。
「ううん」
 交叉点で右折待ちをしていると、助手席の上司が一声うなって目を開けた。
「…お目覚めですか」
「……何。もう帰るの? まだ早いでしょ?」
 不明瞭な口調で、目をこすっている。なにがまだ早いだ。自分はさっさと眠り込んでおいて虫の良い人である。
「何言ってるんですかもう。…今12時半ですよ」
「私はまだ飲める」
「ええ?……でも」
 実のところ、ちょっと眠い。いやかなり眠い。今朝は早出だったのに。それなのに頭の中で近くの飲み屋リストを検索してしまうのはこりゃ職業病なのだろうか。いやただの慣習だ。
「いいよ。お店だと高くつくし。…近くにコンビニあるでしょ」
 それに、これもあるしね。
 そういうとブンビーは少し寂しそうに膝に抱えていたワインボトルを撫でた。

 まあ、予想はしていたので必要以上の理不尽も感じない。
 一番近いオールナイトのグロッサリーで買い物をして戻ってくると、ほとほと調子の良い上司はいつもの元気はどこへやら、しょんぼりと折りたたみテーブルに肘をついてしおれていた。
「ほら。元気出してくださいよ。ブンビーさんの好きなサラミとレーズンバター買ってきましたから」
「…ああ、うん」
 これは相当にしおれている。ちょっと今までにない展開のような気がする。
 いつもならば多少しおれはしていても、こうして家に上がり込む頃にはおおむね復活していて、女などくだらないとか、次があるとか気炎を吐き出すころの筈なのだ。
「しっかりしてくださいよ」
 レーズンバターに蜂蜜をかける、などという胸焼けのしそうな食べ方がこの人の好みだったっけね。4、5切れを切り、常備の蜂蜜をかけていると、背後にふらふらとブンビーがやってくる気配がした。
「栓抜きならこの引き出しに……ひっ」
 のし、と背中に寄りかかられて、ギリンマは死ぬほどびっくりした。
「…ちょっと…どうしたんですか」
 にわかには信じられないんだけど嫌な予感がする。妙に優しげに抱きすくめてくる上司が、願わくは正気でないことを祈る。
「は、放してくださいブンビーさん!」
「……なんでさ」
「なんでって……しっかりしてください」
 どなたかとお間違えなんですよねそうですよね。そうじゃないと困る。だいたい台所に立ってるところにしんなりしなだれかかってくるなんてどこのラブコメだよ。包丁ぐらい置かせてくださいってば。
 懸命に腕を突っ張って逃げようとするが、悔しいが上背の面で不利だった。手首をつかまれ、包丁を取り上げられる。危うく流しにずり落ちそうになっていたまな板と包丁を丁寧にキッチンボードに戻し、少々きざったらしいながらも優雅…といえなくもない労り深い仕草で先ほどのレーズンバターの皿をそっとこちらの手から取り上げる。こうしていればこの人はまあいい男なのだ。それは認めるが。
 腕に抱きすくめているのはちっともその役にふさわしくない男の部下で、持ってるのはレーズンバター蜂蜜味、だけど。
「君も私が嫌いなの…?」
「え…? なんですかそれは」
「いや。…そうだよね。君は嫌いでも仕方ないか」
 弱々しい溜息が襟足をくすぐる。
「そりゃああれだけ毎日叱っていて、こき使って、今更好かれようだなんて思ってないよ、私も」
 ぎゅ、と腕に力が込められた。奇妙に愛おしげな圧力ににわかに不安になる。ちょっと待てよ。何かの悪い冗談だろ。そうだ、きっとそうなのだ。
「ちょっと……お聞きしますけど、からかってるんですよね?」
 だってこの人は。上手いことやったってほめてくれない、失敗しても助けてくれない、自分で責任は取らないくせに手柄だけは取ってゆく、あんの嫌な上司、ブンビーさんではないか。質の悪い冗談でなければ何だというのだろうか。
「そう思ってくれても構わないよ。…もう慣れてる。いや反省もしない」
 嫌われるような性格ならお互い様だよね、と言うと、ブンビーはギリンマの首筋に、ドラキュラが頸動脈にかじりつくような、いささか物騒なキスをした。

 ブンビーさんがここまで酔っぱらってるのなんか、見たことないけど。
 その上にしらふで流されている自分自身にも愛想が尽きる。まだ一滴も飲んでない。
 わざと音を立てるようにして、首筋に、耳朶に、キスをされてギリンマは少し気が遠くなった。いや、この人は上手い。なんだろうねこの慣れは。
 さっきの不意打ちのどっきりがちっとも収まらない。あろうことかそのまま動悸は酷くなるばかり、おまけにこのシチュエーションにうっかりほだされてしまう。
 ただ一つ、言い訳が出来るとするならば、キスをされる前の自分の顔は、さぞかし間抜けにうすら笑っていただろう、というところばかりである。あの時点ではほだされてもいなければ期待など決してしていなかった。不可避の事故である。なんにせよ上司の真面目な顔なんて至近距離で見るものじゃない。
 ブンビーの睫が、よく見ると奇妙に長かったのもまずかった。笑える。
 ほぼ発作的ににやりと笑ってしまったため、不意をつかれて巧みに口腔を割られ、舌を差し入れられてしまっては、もう徒に抵抗するのもばかばかしい気がしてきた。年の功などというと本人は傷つくかも知れないが、戸惑いも性急さもなく泰然と歯列をまさぐるやり方はそれなりに上手い。何より「あのブンビーさん」と、それも振られたてで落ち込みまくっている間抜けな上司とこんな状況でキスをしているというシチュエーションだけでぞわぞわぞくぞくする。
 エロスパムなんかにありそうな、上司に無理矢理…という多少被虐的なシチュエーションと、またそれとは真逆の、どん底の人が藁をも掴む惨めったらしさを鷹揚に見逃してやる心理的優越感とが奇妙な形でいり混ざった、要するに随分とマニアックな悦楽である。今更自分の変態性など、片手で指折り数えても足りないのだから多少マニアックだろうともう大してかまわない気もした。要するに捨て鉢とかやけくそとかその類だが、まあいいじゃないか。だってこの場合は共犯なのだ。
 執拗に口の中を這い回るブンビーの舌に、自分のそれを絡めると、ほくそ笑むような、微妙なうめき声がブンビーの喉の奥から漏れる。ああ。何か誤解された。死ぬほど恥ずかしい。
 手首を掴んでいた指がいつの間にか離れていて、今度は頤をこう、悪役がとらわれの少女か何かにやるように掴んでいる。ああこの人もなにやら俗悪で乱暴なポジションに立っていないと、こんな事正気で出来ないんだなあと思うと少し気が楽になる。
 いいでしょう。いじめられてやろうではありませんか。お気の済むまで。
「…合意と見なすよ?」
 珍しく生真面目に、ブンビーが囁く。茶色っぽい緑色の目が何か特別なメッセージでも読み取ろうとするかのように、やけに真剣にこちらの眼鏡の奥をのぞき込んで来る。何を期待しているのかは知らんが目は注意深く反らしておくに越したことはない。そもそもここでうるうる見つめ合うなんてどだいムリである。いくら腹をくくったってそれだけはいやだ。――すでにして自分が相当に相手を意識しだしている事に、ところがギリンマは全然気付かなかった。
 ギリンマが望むポジションとしては、緩やかな強姦あたりが望ましい。喩え事実上そのとおりであったとしても、合意の上でなんて思われるのは死んでも嫌だ。だってそれだと、今後の展開が嫌じゃないか。これまでの関係だってぶちこわしである。ブンビーさんだって困るでしょうが。女に振られる度に転がり込んでいた部下と出来ましたじゃ情けなくてみんな泣いてしまう。とほほ泣きである。
 それとも初めからそのつもりだったのこの人。  とにかくも。どこまで冷静にアレできるかが今後の勝敗を分けると言えよう。どう対処すればこの人の、また自分の後ろ暗い欲望を満たすことが出来るだろう? どう退く? どう進む? どちらにしたって舌を絡め合いながら考える事じゃない気はするものの。
「……これで満足したでしょ」
 ギリンマはぐい、とブンビーの身体を押しのけると、手の甲で唇をぬぐう。思いの外顔が火照っているし、どうも身体の方はそのつもりに反応しているようである。それでも上辺だけは分別ある冷たい部下でありたいものだ。本当に。
 ブンビーさん、何も言わずにこの茶番に乗ってくれ。頼む。
「さあ。……ご満足ならさっさと帰るか、おとなしく眠るかしてくださいよ。なかったことにしてあげますから」
 すくい上げるような陰気な視線でギリンマはブンビーを盗み見る。ブンビーはさぞ望まない言葉を掛けられた、とでもいうように、一瞬呆けたような、少しがっかりした顔をした。いや真意を汲まずにこのまましおれてお帰りになるのなら、それはそれで次善というやつだ。自分でもなかったことにして、明日っからまたのらくら出勤すればいいのだから。
 注意深く目を反らしていた自分から、果たしてどのようなサインが出ていたものか、何か汲んだような、いかにも性根の悪そうなにやにや笑いが、再びブンビーの顔に復活したのに図らずもほっとして、ギリンマは少し動揺する。おいおいまずいだろう俺。
「……へえ。……生意気な事言うようになったじゃないの。何か大層な貸しでも作ったとでも思ってんの? もしかして?」
 デスクで意地悪言うときの、あの冷たくて、いらだちを含んだ目つきが戻ってきているが、よくよく観察するとそこにもう一枚、いやなレイヤーが咬ませられてる気がしなくもない。条件反射的に身体が竦み、暫時隙が出来る。ブンビーはギリンマの腕を掴み、乱暴に引き寄せる。
「ひぁっ…?」
「そんな弱々しげな悲鳴上げても駄目」
 お言葉だが上げたくてあげたわけではない。けったいな声を上げるほどには、びっくりしたのだ。一度びくんと跳ね上がった心臓が、より一層早くどくどく高鳴り出すのを、むしろ一番困惑したギリンマは何とか押さえようと唇を噛み締める。心臓はだんだん痛いほど鳴り響いてくるし、息をつけばいやらしい吐息になりそうで、十分に酸素の供給されない脳みそは火照ってじんわり痛み出す。いったい何の罰ゲームだというのか。これは。
 ブンビーの右手がカッターシャツのボタンを探る。抵抗しようと胸を押した手は左手につかまれ、易々と退けられてしまう。体格差が少しはあるとはいえ、こうも簡単に両腕を捕まれると自信無くす。やっぱり握力関係はもう少し鍛えなきゃ駄目だ。
「君もさあ。……オトナなんだから汲んでよ。……このまま帰るんじゃあんまりでしょ? その辺りは分かってくれるでしょ……?」
 待っ…て欲しい。このまま、立ったままやるのだろうか。背中に流し台が当たって痛いんですけど。そうぐいぐい押しつけないで。痛っ。

君がそんなにインランだったとは知らなかった。実際の所、もう少し淡泊だと思っていたね。
 そういう述懐こそ、多分にオッサン臭い事ぐらいよく分かっているものの。
 まあいいじゃないか。君は若者で、私はイイ歳。車掌は君で、運転手は僕。
 それでも君はどうしたって自分ではこの責任は取らないつもりらしい。上手い具合に誘導したのは君で、こう、手品のミスリードみたいに、こちらが見ていない隙にするりと自分のご希望のカードを、掏摸の手管でもって置いて来るという始末の悪さである。
「も……もう……止めましょう…よ。…ね?」
 低く囁いてくる声すら筋書き通りの周到さで、代弁してやるとあれだ、俺は断ったぞ、断じて誘ってなんかいない、ちゃんと一回は断ったんだからなと言ったところだ。この。
 ただこちらも。
 おおむね彼の描いた路線には不満はない。でも癪にさわるのは癪にさわる。
 のけぞらせた喉を強く吸い、跡を残してやった。ココはカラーにすら隠れないぞ。ざまあみろ。
 いいよ。君がその気ならば私は甘んじて変態上司の役を勤めきってやろうじゃないか。
 確かにそれはベターなあれだろう。君の名誉は傷つかない。私もなんというか、情けないイメージだけは回避できるだろう。振られて部下の家に転がり込んだあげく、その部下に慰めて貰う、というような筋書きは確かにちょっとやだ。あくまでそれはそれ、これはこれ。この際セクハラも変態も、気弱だのへたれだのに比べれば安い代償というわけだ。それに今更うちの会社、そういうのは奨励こそしないものの、黙認されるのが関の山である。案外そうして自由にさせてると、なかなかその手のアレは起こらないものなのだが、というか自分の身は自分の腕っ節で守れと言うか。情けないイメージを被る危険を被るのはむしろギリンマくんのほうで、それでも遊びに付き合ってくれるというのなら、これは相当に性格もひんまがった部下の、変種の気遣いだと思うことにする。
 弱々しく振り払おうとする手を押しのけて、しばらくじっくり痩せた体躯をまさぐってやる。青白い肌はまだどこか少年臭くて、もしかしたらこの子はまだ童貞なんじゃないかと思うほどだった。学生臭いカッターシャツとジーンズがよく似合う。でもまあ、聞いたら傷つくだろうし。本当にそうだったらかわいそうだし。少なくとも多分25は過ぎてるはずなんだから。
「…何考えてるんですか」
 不信感満載の口調で、青年は言った。顔に出ていたのかも知らん。
「別に。君が童貞かどうかなんて考えてない」
「…いらん気を回さんでください。そんな訳ないでしょうが」
「本当に?」
「…私のことバカにしてるんですか」
 頬を赤らめる様子は、どうとも取りかねる。もっとも本気でそう思ってる訳じゃないけど。でもきっと、ごく浅い、まあせいぜい、一度か二度寝るぐらいの女の子ぐらいしか、知らないんじゃなかろうか。何となくそんな気がした。それも最近は御無沙汰で、仕事から帰ったら適当にご飯すませて、お風呂入って、軽く本でも読んでから寝るような、若者にあるまじき涸れた生活がしばらく続いている感じ。
 でないとこうも簡単に、いくら好奇心や冒険心が旺盛で性的にリベラルでも、男の、しかもオッサンの手にどうこうされるなんていうリスクを冒そうと思うはずがないんだ。万事に、特に日常に倦み、不健康に欲求が満たされていない憤懣が細い目尻の端に、皮肉につり上がった口元に、にじんでいるように思える。多分この子は、酷く退屈している。よって満たしてくれる彼女はいない、と直感できる。日頃さんざん鈍い鈍いとバカにされるけど、こればかりはきっと図星だろうという自信がある。
 まあ要するに私と同じなんだ。…もっとも、私はちゃんと、週末ごとに一緒に寝る人ぐらいつくっておくけど…絶対に長続きはしない。続いて2週間かな。
 今日の彼女だって、数回はあってるし深い仲にもなった。でもやっぱり、駄目なんだ。どこかで神様が見張ってて、迷える子羊が羽目をはずしすぎないように、見事な手管で女の子たちをかすめ取っていく。苦労してセッティングしたあれこれの手妻や、甘い言葉や、きらきら高価なプレゼントは、かくしてすべて水泡に帰す。メフィストフィレスはここに破れたり、だ。
 じゃあ、忌まわしき邪悪な我々は、どうするかというとだ。…やっぱり使い魔は使い魔同士、よこしまな者はよこしまな者同士で、こうして忌むべき所行を為すのがスマートな方法だろう。その場合、確かに彼の提案通り、多少はひねこびた方法のほうがいい。
 きっとこの子は、私より自分らのことをよく分かっている。
 でも。
 作り物みたいに細い腰は、別に黒山羊の形をしている訳じゃない。細身のブランドジーンズに、シンプルで新しい革のベルト。ジーンズは女の子がはくようなローライズだったが、それがまたよく似合っていた。尻ポケットにはノキアの最新機種の携帯が入っている。ストラップは確かワーナーかなんかのあのこすずるくってカワイイ黄色のヒヨコのキャラクターで、着信音はトロイメライ。そんな悪魔ってあるもんか。
 この子は私のカワイイ部下だ。
「…下も脱がして良い?」
 そう聞くとびくっとして真っ赤になる。ああ、全然らしくないのはこの子もなんだ。よこしまで邪悪になりきるんだったら、そんな羞恥捨てなきゃいかん。
「あのさ。……こんな時に突然でなんだけど、とっておきのデートをしたいときにね、ある程度戦略考えていかない?」
「……え? …なんですか…唐突に」
「今日はねえ、海の力を借りようと、思ったんだ。……湾岸線、車通りも少なかったし、新市街の夜景も綺麗だった。……夕暮れから宵の口まで走ってると、潮風が涼しくってね。周遊客船の灯りが遠くに浮かんでた」
「……ああ。…港への直線コースって、綺麗ですよね、とっても。…俺も好きで良く行きますよ」
 ギリンマくんが125ccのカブで湾岸通りを疾走しているところを想像する。彼の愛車はちょっとレトロな形の二輪で、…気だての良い子馬のようによく走る。
 きっと彼の頭にも、そんな光景が浮かんでいる。今日私が見てきた、あの美しい光景が。擬似的にでもあの光景を共有できているのは、なんだか嬉しい。とともになぜか悲しくなった。
 今日一緒に行ったのが、この部下とだったらどうだったろう。憎まれ口や減らず口をたたきながら、徐々に紫色になっていく海と、遠くの夢みたいに綺麗な新市街を眺めていたら。……やめよう。感傷に浸るんだったらやっぱり失恋の思い出で十分だ。
「……それっきりだなんて思わなかったから、……彼女の顔、あんまり見なかったんだよね。でもさ、あそこを走っていると、不思議となんか、何もかもがうまくいきそうな気分にならない?」
「……」
「今度こそ少しは続くと思ったんだけどな…。なんか、ホントになんにも効かなくなるんだよね、駄目な時って」
 ギリンマくんは黙って額を胸にすりつけてきてくれた。やっぱり同病しか相憐れめないのだ。因果なもので。

 時々、この人のことがよく分からなくなる。――と、ギリンマは考える。
 確かに、我々の刹那主義や諦観はスタイルだろう。建前といっても良い。にしたって、この人は少し、無責任に現状を楽しみすぎているんじゃなかろうか。
 そして全く悪意も何にもなく、平気で人のごく生真面目な葛藤や苦悩をぶちこわして知らん顔が出来る人だ。それこそがもしかすると彼の罪だ。本人は決して気付かない。
また悪いことだなんて思わない。――その姿それ自体が、存在が誰かをじわじわと蝕むのかも知れないことなんて、これっぽっちも考えない。
 これでは遅かれ早かれ、振られたってしょうがない。……確かにブンビーさんには、ある呪いがかかっているのだ。「ムリ目の女子」とか、しつけ糸とかとは全然関係のない、もっと高次の次元での。
 浸食するように重い身体に組み敷かれ、ギリンマはコマユバチの話を思いだした。青虫に寄生して、宿主を食い尽くして大人になる、「冷酷な」虫。生物の教科書に寄生された青虫の写真が載っていた。そんな物載せるなよというぐらい、あれは無神経で悪趣味なものに見えた。…だってそうだ、あわれっぽく、体内を蜂の子供に食い尽くされて、気味悪い繭を身体じゅうにつけたお気の毒な青虫に、同情でもしろというのか? お為ごかしで、押しつけがましい、趣味が悪いばかりの嫌らしい写真。蜂は本能に従っているだけだ。ただ、存在しているだけ。
 ブンビーさんにかかっているのは、多分コマユバチと同じ呪いだ。そうして自分にもおそらく、同じ呪いがかかっている。とうの昔にそれをあきらめた己と違い、素知らぬふりをしつづけているだけ、ブンビーさんのほうが立派にすら思えた。
 エゴイストの香りが濃厚になる。この人は。……分かってて露悪的なんだろうか? それとも、単なる偶然か。
 なんでもして差し上げます、そう言って金色の産毛の生えた背中に手を回す。すでに自分の意志は薄弱で、なんだか朦朧としている。
 するとブンビーさんは困ったように笑って、言った。
「…大丈夫だって。絶対に無理強いはしない」
 嫌だったら嫌って言って良いからね、なんて、すがりつくような顔で言われてしまったら、嫌だなんて言えなくなるだろうに。麻痺の毒針みたいな、的確な言葉だった。
 すでにして最後まで覚悟は決めたはずなのに、間違った道に入り込んでしまったみたいな、不安と頼りない浮遊感があった。間違っているだのまよっているだのというのならば、確かに今日は何から何まで、正しい道を進んでいないような気がする。
 ギリンマは注意深く鼻梁に手をかざして、眼鏡を守る。もはやこれは最後の指針だ。右も左も分からずに、ボール紙で作った迷路に迷った鼠に成り下がらない為にも。何しろこれがなければ、腕一本分の距離にあるブンビーさんの顔すら、よく見えないのだ。
「好きだ。…君のことが、大好き」
 まるで嘘のようなうわごとじみた口説き文句が、ブンビーの唇から漏れる。密かに唇を噛み締め、泣きたいような気分になった。嘘ばっかり。
 仮に少しでも好きだとして、それはせいぜい弟や子供に向ける、保護者のそれに似た何かだろう。それだってどれほど持ち合わせているのか、知れたものじゃない。
 核心を探ってくる指に、分かっていても身体が強張る。硬く高揚した物をあの、良く磨かれた爪をした手が、弄んでいるのだろうと思うだけで身体の奥底が熱くなった。先端からあふれ出る液体を指に絡めて、後ろを濡らす。硬く閉ざされたそこを無遠慮な指が押し開く。
 知らないうちに己の手の甲を噛み締めていた。鈍い痛みとともに、鉄錆の味がにじむ。
「…痛いよ、そんなにしちゃ」
 優しげで残酷な声が言う。犬歯の食い込んだ手の甲は見事に傷ついていた。その手を優しく握り、軽く唇に口づけた後、ほぐされた後ろを一気に貫かれる。
「……ああっ …ブンビーさんっ…」
 甘い疼痛が走る。うわずった自分の声なんて聞きたくもない。…だから口をふさいでいたのに。
「駄目だよ。声を我慢しちゃ」
 言われるまでもなく、突き上げられるたびに掠れた声が漏れるのを、すでに止められなくなった。一度決壊すると、すべてがなくなるまで押し流されるだけの、ダムみたいなものだ。やるせなくて、恥ずかしくて、涙がこみ上げてくるのすら、どうしようもなくなる。最後の抵抗で手をかざして、涙で濡れた顔を隠した。
 ああ。畜生。
 イイコだね、とブンビーさんが言い、再び唇をふさぐ。今度は少し深いキスをした後、耳に舌を差し込み、有無を言わせない傲慢さでこう命令を下す。
「イイコだから…いくときは私の名前を呼び給えよ。……いいね」
 畜生…自分勝手に。
 ああどんな方法で……抵抗を試みようか。
 粘膜がこすれる音が激しくなる。手前勝手に恍惚として目を閉じるブンビーさんが、さあ、という。ああ。…ああ、そうだ。
 この。
「…おとうさん」
 自分でも大概変態だと思う。達すると共に暫時、世界が暗転した。


 お腹が一杯になって安心したんだろう。焼きそばを食べ終わった後、ギリンマくんはまた眠ってしまった。
 酷い復讐もあったものだ。…そういうプレイだというのなら別にいいけどさ。
 ベッドサイドテーブルには、きちんと割り箸をそろえて、焼きそばの空の四角いカップが置かれている。こんな物を発明した食品会社は呪われてしまえばいい。
「私は君みたいな大きな子供を持った覚えはないよ」
 独りごちて、緑色の髪に指を通す。跳ねやすそうな、強情な髪の毛は、几帳面に切りそろえられている。天然の癖っ毛らしい襟足と鬢のあたりが、外側に跳ねてて、これがまた子供っぽい。細い首と相まってほとんど少年のようだった。
 カワイイ私の部下。もしかしたら、彼はお父さんがほしいのかも知れない。…と思ってはみたものの。
「…でもやっぱり、お父さん呼ばわりされる覚えはないんだけどね」 
 やっぱりちょっとショックなんだけど。嘘でも偽りでもない、今や本当に、君のこと、好きだと思ってるのにね。

 まあ、この場合は日頃の行いを反省すべきだろう。
 ブンビーは軽くあくびをすると、机の上のデジタル時計を確認した。午前2時半。丑三つ時。
 まあ、あれだ。夢や幻が横行するには、良い頃合いだ。
 お互いこのことは悪い夢だとでも思って、忘れてしまった方が良いのかも知れない。
 だって。……明日も仕事だし。
 了