「特等席に、招待いたしますよ」

確かあの人はそんなことを言っていた。いったいこの部屋のどこが特等席なんだよ。

「特等席ですよ。そりゃあもう。…だってここ、6と1/2階ですもん」
こともなげに言うと、お茶室の潜り戸をくぐっているようなポーズのまま、カワリーノは振り返った。
「あ、あの…」
「問題ないでしょう? だって一晩寝るだけじゃないですか。それとも、何ですか? 文句でも?」
何か言いかけたブンビーに押し被せるように言うと、部屋の中に入るように仕草で促す。仕方なくブンビーは掃除道具入れかなにかのような小さな扉をくぐった。
「…文句なんかないですよ。兎穴にはまったプーさんみたいな気分ではありますけどね」
「気に入っていただけて嬉しいですよ。…ちなみにもちろん、宿泊代も半分ですから、ご心配には及びません」
何の心配をするというのか。
背の高いブンビーは苦労してかがみ込むと、背丈の半分ぐらいしかない潜り戸をくぐる。 意外なことに調度品はしっかりしていて、案外寝心地は良さそうだったが、天井は低すぎ、身をかがめたままでないと頭がぶちあたってしまう。ブンビーはなんとなく、一昔前に見た、名優ジョン・マルコヴィッチの名が冠されたシュールな映画を思いだした。あれもハーフ階があって、そこに変な会社があるんだっけ。
そのうえテレビなどの娯楽系のものがまったく見当たらない。ラジオもない。これでは朝のニュースも、深夜番組もチェックできないではないか。あとこういうホテルにありがちな大人向けチャンネルも。
あからさまに顔に出してがっかりしているブンビーの心の内など、かけらも読めない、というふうに、カワリーノはちょっと良い顔でにっこり笑うと、
「では、お休みなさい。…明日は早いですから、あんまり居心地良いからと言って、くれぐれも寝過ごさないように」
そういって、もう一度今度は意味深な笑顔を残して、出て行ってしまった。

 まったく人使いが荒いといったって、これじゃ立派な嫌がらせだ。
座っている分には天井には少し余裕がある。ブンビーはさっさと寝てしまおうと、作りつけのバスで身繕いをすませベッドの上で背中を丸めて、ブランデーをやっていた
。  まあものは考えようだ。秘密基地のようだと言えばいえなくもない。しかしなぜ、後ろ暗い任務でならば分かるけど、普通の出張でこんな隠し部屋みたいなところに。
 駅前のキオスクで買った雑誌をぱらぱらやったりしながら眠気が襲ってくるのを待つが、この狭さではなかなか寝付けない。
「…電気消してみたら眠れるかも、ね。そうしよ。そうしよっと」
ブンビーは半分やけのように独りごちると、枕元の読書灯を消した。
異様なほどに部屋の中が真っ暗になる。まあ、窓もないし。
「……あれ?」
ブンビーは暗闇の中で目を瞬く。床のある一点から、か細い糸のようなものが天井に向かって立ち上っている…ように見える。仰向けに寝直して見ると、確かに天井の一点に、小さな丸い光が浮かんでいた。どこかから光が漏れているのだ。
要するに床のどこかに穴が開いているらしい。やれやれ。大概安普請だねこのホテル。五つ星とか言ってたくせに。
 気になり出すと非常に気になる。ちらちら動くわけでもないし、放っておけば良いようなものだが。
 ブンビーはむくりと起きあがると、光が漏れている床のあたりにはいつくばってみた。  確かに、絨毯のある一点に、タバコの火を押しつけたような不自然な穴が開いている。光はその穴から漏れているようで、ようするにこれは絨毯を通り越し、床にまで達している穴なのだろう。天井裏でもあるまいし、曲がりなりにも鉄筋なのだから、不自然と言えば思いっきり不自然だ。覗きのために作られたとしか思えない。
 不意に去りがてのカワリーノの、意味深な笑みを思いだした。いつもの能面が張り付いたような笑みではなく、嘲笑するような複雑な笑み。
 と、同時に、『特等席』の意味も諒解されたような気がした。
「……それにしても」
 覗き穴付きのいかがわしい部屋であることは分かったものの、ここから何を見ろというのだろうか。単に覗きの現行犯を捕らえて、それを新たなからかいのネタにしようというのか。…いや、そんなばかばかしい、子供のイタズラのような事をあの人がやるとも思えなかった。
 …とにかく、一度覗いてみれば何か分かるかも知れない。断っておくが、これは純粋な好奇心とカワリーノさんへの一抹の義理だ。決して覗き趣味なんかじゃない。
「…ちょっとなら良いよね。…だれが見てる訳でもないしね」
 誰に対しての言い訳なのか、ちょっと大きめの声で呟くと、ブンビーはさらにかがみ込み、タバコの焦げあとに目を近づけてみる。思春期のころにこっそり読んだ、江戸川乱歩の小説を思いだす。
「ああ…結構見えるじゃんこれ」
 願わくば女性の部屋だと良いね、などというのは覗き趣味じゃないのだろうか。いや、せっかく覗くなら多少は楽しいあれの方が良いじゃないか。
 穴は丁度、ベッドの上あたりに開いているらしかった。あからさまにいかがわしい目的で作られたものと一目で諒解できた。しかも、覗いている部分はごく小さいのだが、穴は台形にほんの少し広げてあるらしい。向こうからどのように見えているのかは分からないが、火災報知器かなにかを模して作られていれば、かなりな視界を確保できるであろう。
 部屋の主は、今は風呂でも使っているのか、視野の範囲には見当たらなかった。ベッドも使われた形跡はなく、きっちりメイキングされたままになっている。ベッドの脇に、そっけない形のスーツケースが置かれている所をみると、どうも女の部屋ではないようであった。
「ちぇ。…まあそうそう話がうまくいくわけないよね」
 早々にがっかりして、目を離そうとしたそのとき、視界の右手から誰かがベッドのほうに歩み寄って来るのが見え、ブンビーは息を飲む。というのも、フレームインしてきた人影はあろう事か、ナイトメア社常務の一人だったのである。
「うわー。ブラッディさんだよ…」
 俄然興味が出てきて、ブンビーはさらに目をこらした。私生活がほとんど想像できないあの上司が、一人きりでくつろいでいるところなんて、滅多にお目にかかれない。さらに言えば、もしかしたら何かの役に立つかも知らん。
 穴が開いているということは、こちらの気配も筒抜けかも知れない。今のところは気付いていない風に見えるが、恐ろしいまでに地獄耳の上司だ、気をつけるに越したことはない。ブンビーは用心深く手で自らの口をふさぎ、さらに床の穴に目を押しつける。
 見たところブラッディは、いつものあの堅苦しいスーツを脱いでもいないらしい。帽子を脱いだ、綺麗になでつけられた銀髪の頭頂がよく見える。
(……ここから毒薬を垂らしたりしたら、暗殺可能じゃねえの?)
 たしか皮膚に触れただけで人を死に至らしめるという劇薬があるとかないとか。物騒な妄想にふけるブンビーをよそに、ブラッディは新聞の経済欄でも読んでいるようだった。退屈である。もっとこう、あっと驚くような事はしないのかしら。…たとえばこう、寝るときにはらくだの肌着とステテコになるとか。
 少々飽きてきて、ブンビーがあくびをかみ殺した時、不意にブラッディが立ち上がった。
「やあ、来たね」
 かなり籠もって聞こえるが、やはり声はそこそこ聞こえる。
 どうも誰かと約束でもしていたらしい。なるほど、だから服を着替えずにいたという訳か。
「お待たせしてしまって」
 聞き覚えのある細い声が答え、ブンビーは少なからずがっかりした。
 なんだよなんだよ。女でも呼んだのかと思ってたのに。
 どうもスキャンダルには発展しなさそうだ。階下の新たな客は、つい数時間前に別れたカワリーノである。きっと何か打ち合わせでもやるんだろう。…もしかしたら会社の機密に関係することかも知れないが、こうまでしてそれを盗み聞こうと思うほど、四六時中仕事の事を考えている訳じゃない。
 カワリーノがブンビーをこの部屋に通した理由は不明だが、おそらく気がついたらブラッディでも監視してろとでもいうほどの意味だったのだろう。明確に指示を出さなかったのだって、そんなもんは口頭でも具体的なアレを残したら後から問題になりかねないからだ。仮に何か掴んだからと言って、ブンビーも何もかもしゃべる訳じゃないが、あの人との共通利益になるような弱みをもし掴んだら、そのときはそれなりに有利な立ち回りが出来るかも知れない。
 どちらにしろ、当のカワリーノが客とあれば、少なくともここで自分が変に義理立てしてブラッディを見張るのもばかばかしい気がする。貴方が部屋にいるうちは、見てなくてもいいよね。カワリーノさん。
 まあせいぜい、ブラッディさんの寝相でもチェックして、あとで教えてあげますよ。…それともこれは、ブラッディをそれとなく牽制する布石の一つに過ぎないのだろうか。
 カワリーノはブラッディさんの部下だったらしいじゃないの。そうでなくとも会社の重要な地位にいる二人である。このような密談など、きっと日常茶飯事に違いない。密談の内容には少々の興味はあるが、ヘタに聞いて気分が沈んでもつまらない。ううむ、もしかしたら冬のボーナスもカットされるかも知れないし。…もう少し希望は持っていたい。
 やめやめ。ぜんぜんつまらない。ブンビーはそそくさと立ち上がり、…思い切り天井に頭をぶつけた。


 ……とはいえ。
 変に寝付けなくなってしまった。さっきTIMESは読み終わっちゃったし。どこかの通信事業者が情報漏洩のスキャンダルで数億円損して、どこか外国の会社が映画産業に乗り出した。おしなべて変哲もないニュースばかりで、明日の取引先との話題にすりゃなりゃしない。どうせ自分は現場担当の気楽な立場で、実務レベルのプレゼンして、あとの腹芸は常務と秘書殿がやるのだ。口八丁なら余計なことまで言ってあとで下の階の人に怒られるというぐらいのものだから、特に何の問題もない。だいたい下の人は頭が硬すぎるのだ。裏はどうであれ、うちだって利益を追求する一企業なのだから、大企業らしい高飛車なんて今日日流行らない。たまには相手を調子に乗せて、勢いで話を進めたっていいじゃん、楽しいし。それがあのくそ真面目な渋面が会議室のど真ん中に居座っているだけで、すすむ話も進まなくなってしまったり。どう聞いたってそのときの気まぐれみたいな理由で、いきなり会議のテーブルをひっくり返されたりなんてのは日常茶飯事なのだった。
(……くそう。なんだか嫌になっちゃったね)
 ブンビーはベッドの上にあった毛布を肩からかぶり、もう一度もぞもぞと床にうずくまった。いや、確かにこうして独りでくさくさしているよりも、覗きでもしていたほうが楽しいに違いない。ありがとうございますカワリーノさん。何の気まぐれでか、こんな特務を私に仰せつけるなど、もしかしたらミスマネジメントかも知れませんぜ。
 ついでの貴方の弱みも握れれば恩の字なんだろうけど。…さすがにそんなことはないか。
 もう一度目を節穴に押しつけてみて、ブンビーはたいそうびっくりした。
 社長秘書と常務殿は、…まあ有り体に言えば熱烈なキスの最中で、…よくよく見てみると、ちょっとだけ、カワリーノさんのほうはうんざりしているというか、多分にお芝居じみているというか、多少嘘くさい感じで、取り敢えずは従順そうに見えるのが不可思議ではあったが、まあ屋根裏の散歩者の面目躍如な場面に遭遇というか、覗きならこれぐらいのサプライズがないと面白くないというか、いやそんな都合良く出血大サービスがあってたまるかというかなんかおかしい。いやいやそれ以前の問題だろうに。
 要するにブンビーはあっさりと混乱し、思わずえええ! などと叫びそうなのを押さえるために、無意識に手の甲を噛んでいた。あわてて両手で口をふさぐ。
(ええ! 何? そうだったの?…っていうか!)
 じゃあなんでカワリーノさんはこの部屋に私を?
 当然の疑問が浮かんでくる。やっぱり、あれだろうか。他の誰かに見られないように、あえて私にこの部屋をあてがったのか。私ならばあの穴に気づきもしないで、惰眠を貪るだろうという希望的な見くびりのため?
 いやいや。
 それはいくら何でも詰めが甘すぎるというものだろう、とブンビーはひとりで首を横に振った。それならば私に睡眠薬を飲ませるなり、あらかじめあの覗き穴をふさいでおくなり、すりゃあいいのだ。だいたい、この部屋に初めに入ったのはカワリーノさんだし、あの周到な人なら“見せないため”の策ならばそんな中途半端なことはしないはずだ。ないない。そもそもその場合一番簡単な方法は、この部屋を自分の名前でブッキングしておくことだろ。こんな部屋、当然このすかしたホテルのほうでもご了承済みで、当然半額どころか倍額ぐらいのお泊まり料でご提供なさって、下心あるセレブリティどもに少々マニアックなラグジュアリーをお楽しみいただいている筈である。裏の裏まで通じているのが当然のあの人なら予約できないはずがない。あんなにこともなげに私にかぎを渡してくれたじゃないの。そうだ。宿泊料金だって半額なんてありえない。どっちかというとこの部屋はカワリーノさん曰くの「特等席」の本来の意味で合ってるのだ。だいたい、声とかも聞こえちゃうんである。私を泊まらせる意味が分からない。
 となれば、考えられる理由はもう限られてしまう。
 あえて、この醜態を、本来ならば死んでも知られたくもないだろうこの秘密を、わざと私に握らせるためか。
 確かにその場合、『見せる』相手は捨て駒が望ましいに違いない。標的がブラッディだとして、目撃者がいることをほのめかし、…事の露見を担保に、なにやかにやと有利に立ち回る。きっとそれだ。となれば、もしかして結構微妙な立場なの私?
 だって捨て駒って。…ブラッディさんと真っ向からやり合うのは正直言ってかなり嫌だ。私としてはもうすこし、平穏無事に過ごしたいんですけど。ああでも。
「いや…です。…やめてくださ…い、ブラッディさん…。許して…」
 千々に乱れる思考をぶった切るように、切れ切れに喘ぐ艶めかしい秘書の声が漏れ聞こえ、ブンビーはごくりと唾を飲み込んだ。穏やかでない。穏やかでないどころか、相当いかがわしい。あまり見たくない。見ちゃいけない気がする。のについつい見てしまう。目を掌で覆いながら、指の間からのぞき見てしまうあの感じだ。
 痩せた身体が横たえられ、ブラッディのしわがれた、青白い手がカワリーノの地味な、葬式に出るみたいな黒いスーツを脱がせていく。に従ってこれもまた青白い、ほとんど灰色のような冷たそうな肌があらわになる。
「…悪趣味な奴だ。今も昔も。……いや、歳を経る事にいやましに酷くなるな、お前は」  それこそ、時代錯誤の吸血鬼みたくカワリーノの上体に身をかがめていたご老体はどこか疲れたように呟くと、首のリボンタイを解く。
「…無意味な戯言など吐けぬように…これでも咥えておいで」
 普段取り澄ました秘書が苦しげに眉をしかめ、懸命に顔を背けるのも意に介さずに、メスを振るう外科医のような冷酷さでしわがれた手が頤を捕らえる。距離も遠くて、それほど細部までよく見えるわけでもないが、冷たく乾いた老人の指先が自分の顎にも触れたような気がして、ブンビーはぞくりと身を震わせた。
サテンのすべすべした上等なリボンが、カワリーノの口をふさぎ、くぐもったうめき声が漏れる。肉付きの薄い眉間に苦しげな皺が寄り、切れ長の眼がぎゅっと閉じた。
(……これは、なんていうか)
 基本的に自分にはその手の趣味はない方だ、と思っていたけれども。
 いじめられている人がよく知った、それもちょっと嫌な奴だと、それはまた話が違ってくる。いい気味だ、もっとやれ的なあれ。
 そうだ、これはきっとそれだ。妙にどきどきするのも、なんだかあの人がかわいそうに、やけに弱々しく、可憐にすら見えるのはそのせいだ。断じてそのケは私にはない。ないんだったら。
 ブラッディはさらにカワリーノの手首を後ろ手に皮の手錠で縛めると、フロックコートを脱いだだけの格好でうつぶせに組みしいた。最後の抵抗を試みるように、カワリーノは首をもたげ、身体を起こそうともがく。苦しげな細い悲鳴がリボンの下から漏れる。
「さて、さぞやご満足だろうね、カワリーノ」
 …酷いことを言うねブラッディさんも。取り澄ましたお二人さんにこんな裏面が。これは相当にスキャンダルじゃないの。
 もうブンビーは覗き穴に目をねじ込まんばかりにしてかがみ込んでいる。いや、確かに特殊だけど、これはこれで面白いし、小気味良いし、なかなかにエロい。深夜番組はあきらめるとしても、十分に楽しい夜というやつだ。すでにして仕掛け人が当のカワリーノさんだということは半分ぐらい脳裏から消え失せている。いや、この際見ちゃったのは本当だし、見てないといったらむしろどんな皮肉を言われるか分からんし、ならば楽しんじゃおう、と腹をくくった、と言えばいくらなんでもかっこよすぎるか。
 ここからはもはや雰囲気しか分からないけど、うつぶせで全裸のカワリーノさんを、ブラッディさんが犯しているのは分かる。カワリーノは目を閉じて、時折喉の奥からか細い悲鳴のような、うめき声のようなものを絞り出す。目の縁が隠微に赤く染まり、綺麗に切りそろえられた黒髪が乱れて…
 いかんいかん。なんか駄目だ。危うい。
(カワリーノさんで興奮なんて…しませんから! してませんよ全然!)
 無意味に手の甲なんて噛んじゃったりして。正気になって私。ああ見なきゃ良いんだけどさ。でもさ。
 ブラッディが短いうめき声を漏らして上体を起こした。ああ、いっちゃったんだ。見ちゃった。いや今更見ちゃったもないか。
「…あとは好きにしろ」
 カワリーノの手錠をはずしながら、ブラッディが呟いた。
「私は君の部屋で休むことにするよ。…君の酔狂にはさすがにこれ以上つきあえん」
 うつむいていたカワリーノさんがその言葉に顎を上げた。金色の視線は、ブラッディを通り越して天井の節穴のほうに向いた、気がした。