おとなは、うそつき。

 そう。
 部下に何かあったら、上司が責任を取るのが、筋でしょ?

 目を開けてみる。本当は開けたくなかったんだけれども、開けないともっとまずいことになるような気がする。
 忌々しい男の声が、まだ耳に残っている。ご説ごもっとも。その通り。でもね。
 それを言うならあなた方にだって十分責任あるよね。

「こんにちは」

 ああ、うん。想像はついた。
 自分の声って外から聞くとこんな風に聞こえるのね。テープに吹き込んだ自分の声を聞くのは少し恥ずかしい。
 ブンビーはゆっくり振り返り、困ったふうに眉を下げて、嫌々自分の鏡像に向き合う。
「こんにちは。…カワリーノさん。…やっぱりその悪趣味な嫌がらせ、されるんですね」
 鏡像は実に陰険に、くすり、と笑ったのみで答えなかった。
肘を抱えるようにした腕組みと、瀟洒な立ち姿は自分ではない。口元に浮かぶ笑みと、冷ややかな目も、まるで他人だ。…と思う。何しろ外から見た自分なんて。ナンセンス。想像すらつきゃしない。
 鏡像のブンビーが口を開く。
「ねえ。…部署はなくなっちゃうし、部下はみんな死んじゃうし。…やってらんない。おまけに一番イヤミで、気にくわない奴の部下だよ? …もう辞めようかな、って辞めらんないし。…だいたい辞めてどうすんの? 路頭に迷うの? 家のローンも残ってるのに?」
 良くお分かりで。なんでそんなにお分かりなので。
 この人は多分、こうして土足で人の心に踏み込むのが得意技なんだね。きっと知っているのは本音だけじゃない。今日の朝食べたポトフとか、昨日の夜の妄想の相手とか、私の大切な私生活のあれやこれやを、みんなみんな、知ってるんだね。
「辞める選択肢はないよねえ。…君はあの子に、ギリンマくんにあのカードを渡したよね? カワリーノに言われたから? ちがうでしょ」
 こつ、こつ、こつ、…靴音がだんだん近づいてくる。恐ろしい。物理的な暴虐さも確かにこの男にはある。がお得意はやっぱりこんな風な精神的な嫌がらせ。
 でも。
「社の決定に逆らえば、次に危ういのは自分だもんね。……本当は『彼で良かったな』って思ってたんでしょ。そうでしょ」
 すい、と鏡像の手が伸び、親しい友人にするように、ブンビーの肩をつかんだ。おしころした少し下劣な笑い方は、本当に自分によく似ていた。
「でも君は実に巧妙だよ。度重なる失敗にしたって、報告書を書くのは自分、だもんねえ」
 ああ。ああ。
 そうきたか。
「自分自身の失態については、隠蔽も可能だよね。ていうか隠蔽したじゃない。大勢部下がいるのを良いことに」
 ずきり、と初めて胸が痛んだ。
「もちろん、気にすることはないですよ。みいんなやってることだしね。みんな。誰が些細な失敗を、いちいち正直に上司に報告いたしますか、ってんの。…ちょっとしたミスなんて報告段階でそっと塗りつぶしちゃえばいいじゃない。……ちゃんとあとで補っておけば、それでいいんだもん」
 自分が自分の耳に口をよせ、ささやきかけてくる感触は、どうにもぞっとしなかった。
「全部分かってるのにねえ。…自分では」
 にや、と鏡像の唇が半月型につり上がる。
 そうだ。そうだった。よく分かっている筈だったのに。
 人間、油断するとだめだよね。怖いよね。
「まあ、君がギリンマくんの死期を早めたようなものだよね」

 貴方は責任を、取らないんですか?
 
 細い指に挟まれた黒いカードは、深淵を押し込めたような恐ろしい色をしていた。


 外に、出してくれないんだろうか。
 黒いカードは今、ワイシャツの胸ポケットに入っている。酷く眠くて、目をつぶっている間はとても気持ちが落ち着いて、とても楽しい夢を見ている気がする。
 絶望の淵に落ちる、というのがこんなのだったら、進んで落ちたいとでも思うような。
 ちがうでしょ。
 そんな可愛らしい絶望は、それこそ乙女たちのほうに任せておいたらいい。大人なら、血反吐を吐くような、ひたすらに押しふさがる憂鬱のほうだろう。
 それともこれは、あの人一流の最後のサービスですか?
 目を開ける。と意外な場所にいた。
「あれ?」
 随分殺風景な部屋だった。ものの少ない。
 ごく質素なダブルベッドと、ぞんざいに部屋の隅に置かれた小さなタンス。その上に14型液晶テレビ。小さなカラーボックスがあって、その中には幾冊かの本。
 ベッドの足下の方には扉があって、その先にはまたもや小さなキッチンがあるはずである。電熱器タイプの調理コンロと、こんなもので何がつくれるのと言うぐらいの流し台。
 流しの下に作りつけられた小さな冷蔵庫。そこにはたぶん2本の缶ビールと、食べかけの柿の種が入っている。他に入れるものがないから。
 部屋には昨日のカレーと若い男の子らしい据えたような匂いが僅かに残っている。
「狭いですね」
 男か女か分からない声があざけるように言った。
「よく知っている場所でしょ?」
 なぜか少しほの暗い声で、カワリーノは言う。
 そう、何度かおじゃましましたよ。だってあの子は、飲むと絶対前後不覚に酔っぱらって、家に帰れなくなっちゃうんだもん。
 それでも送っていってあげていたというのは、なんか滑稽な感じもする。タクシーに突っ込んで、ハイおしまいに出来ない何かがあったんだよ。あの子。
 心底押しふさがれた、憂鬱な溜息が漏れる。
「ご冗談はよしてくださいよう。どうせ貴方また例の力で、私に夢を見させてるんでしょ」
「いいえ」
 カワリーノの声はいつになく真剣だった。
「ここは正真正銘、ギリンマさんの部屋ですよ」
 諭すような、慰めるような声。あきらめてブンビーは身体を起こす。
「じゃどうしてまた」
 カワリーノはブンビーの足下の、ベッドの端に腰掛けていた。
 ちゃんと座ってみると、少し目眩がするのが分かる。こめかみあたりにずしりと重い違和感がある。
「ブンビーさんは随分不安そうでしたからね。……現実を見つめれば恐ろしくもなくなるかも、と思いまして」
 徐々にカワリーノの声にいつもの調子が戻ってくる。嘲笑を含んだ嫌みな言葉。感情に揺らがない不思議な高い声。じゃあいままでの憂鬱はいったいなんだろう?
「貴方がいなくなったって、世界がどうにかなってしまう訳ではないんです。現にギリンマさんがいなくなったからって、彼の持ち物の何一つ、なくなっているわけではない」
 冷蔵庫の中の食べかけの柿の種すら、消えやしない。部屋にこもった体臭ですら。これはいずれ、霧散するだろうけども。
「貴方がいなくなった欠如は、いずれ世界のほうで埋めてくれる。それに大丈夫ですよ。……ただいなくなるだけで、誰かが覚えていてくれるのであれば、記憶は残るわけですから」
 喩え何にも記録されなくとも。だから。
「何も怖がる事なんてありませんよ。自我を失い、目的を遂げれば消滅するとしても、貴方は」
「うるさいよもう」
 分かってるよ。分かってますともそんなこと。
 不思議とカワリーノはブンビーの無体な言葉遣いに何も言わなかった。
「私だってもういい年なんだしね。両親やら祖父母やら亡くしてるしね。分かりますよそんなことぐらい。誰かがいなくなったって、それで何もかもが終わる訳じゃないことぐらいね」
 我ながら情けない。これではただの子供っぽい、泣き言じゃないか。
「持ち主のいない部屋なんて、なあんにも怖くなんかないんですからね。こうなってしまうのも覚悟してたし、もちろん、明日は我が身っていうのだってよっく、分かっているつもりですとも」
 だからこんなプレッシャーを掛けたって、どうって事ない。
 7時半にセットされた目覚まし時計の、緑色に光る針。枕元にあるナイトテーブルの上にあるのは黒い手帳。今年の冬のあたりまで、几帳面に貼り並べられた小さな付箋が頭を覗かせている。
 目覚ましを止めるものも、todoのチェックを消すものももういないというのに。
 ブンビーは力なく目を閉じる。
「ちゃんと捨てて行けよなあ。…分かってるんだったらさあ。……ねえ、ギリンマくん」

「私を組み敷いてどうにかなるんですか」
 至極こともなげな様子に、冷笑混じりの言葉。
 眉根が嫌悪に寄っているのすら、おそらく作為なのだろう。そういう表情をすれば私はたしかに簡単に逆上する、だろう。
 すべてが擬態であるのならば、こうして怒りをぶつけているのも空しい。
「やめなさい」
 証拠に、とかいってこの人、全然本気じゃないもんね。もう本当に、いらつくぐらい。
 細い手首を握りしめたはなぜか振り払われず、引き締められた口元が弱々しげに震えているのなんか嘘くさいにも程があった。
「お芝居はおやめになったらどうですか? あたしゃお芝居は好きですけどね。こういう時にまで芸達者な所を見せられると、なんだか腹立ってくる」
 手早くネクタイを緩め、ワイシャツのボタンをはずす。高価そうなタイピンを左手に握らせてやる。冷たい金属の感触が近くにあるのがいいのだ。単に自分の好み。
「細い指」
 タイピンを握らせた指に口づける。指の主は露骨に眉をしかめ、さっきより強い口調で言った。
「やめなさい」
 
 死んだあの子の部屋でこのような冒涜的な事をやるのは、てひどい彼への侮辱のような気がした。その上自分がすべて悪い。褪せた土塊のような色の身体を力なく横たえて、荒い息をついているこの人は、巧いこと自分を導いただけだ。いつもながらそういう手腕だけは凄い。まるで組み手のような抵抗と攻勢があって、その後打ち合わせたような諦観と征服があった。諦観のシナリオの後は抱き上げようが転がそうが全くの従順で、時折混ぜ合わせる視線はあたかも、お互いの思惑を取り交わしているようなあざとさがあった。かくしてデキレース的な相互契約が無言のうちに締結され、その間ひっきりなしに直截な快楽が取引された。ほぼスーツのままのブンビーがあたかも強姦のように、細いカワリーノの腕を後ろに締め上げて後ろを犯したまま達しても、カワリーノは僅かに切なげな吐息をついたばかりで、恨み言一つ言わなかった。
 土人形の目のところが、赤く染まっていて、違いようもなく年を経た妖怪のようなこの人が嘘にでも初々しく見え、その連想は驚くほど容易にかつての部下に重なった。何も知らない、世の中の辛いことや、醜いところばかりを見て、いなくなってしまった部下。いつも泣いていたような気がするあの子。結局自分も、彼に一つ、おぞましいものを教えたんだから、こんな感慨はおこがましいにも程がある。でも本当は、本当は大切に思っていたつもりだったんだ。本当に。
 そっと、みぞおちに唇を寄せる。この上司の体つきは、ちょっとだけあの部下に似ている。びくり、と身体を震わせる仕草も、顔を背けて息を飲む初々しさも、芝居だと分かってはいるが。
「ねえカワリーノさん。…私になにやら、感慨に浸らせようとしたって無駄ですよ。私は今までの事に、後悔なんかしていませんもん」
 彼の心臓に語りかけるように、低い声で囁く。自分に言い聞かせているようにも思える。何にせよ嘘っぱちのインチキだ。…でも、言葉に出せばそれは幾ばくかの真実になる。
 それが現実なのだ。嘘をついて何が悪い。所詮心の中のことなんか、その本人にしか分からない。…現実とは、吐き出された言葉にのみ宿るのだから。
「そうですか」
 証拠にカワリーノもまたそういったばかりだった。冷ややかすぎる反応、先ほどの初々しい動作にはまるでそぐわない、老獪な本性が見えた気がした。
「じゃあ貴方に、また幻を見せてあげましょうか。……ギリンマさんの夢でも?」
 気怠げな声はどこか投げやりにも聞こえる。
「無駄ですよ。…言ったでしょ? 私は私だ。…誰がどうなったところで、知りません。悔しかったらもっと追いつめてみるんですな」
「…そうですか」
 失敗ですね、と呟くと、取り繕うように乱れた黒髪を指で梳く。
「貴方はもう少し、部下思いな方だと思っていましたよ」
「なんとでもおいいなさいな」
 この人のやり方をよく分かっている自分が、今更、この人の手練手管に籠絡される訳もない。要するにこの人は何とかして私を破滅に追い込みたいんだろう。絶望させて破滅させる。いや、絶望ならば日常的にしてるとしても、――何せ「絶望」に忠誠を誓っているんだから――現実的な破滅に追い込むのがこの人のミッションなのだ。
 喩え身体を張ってでも、というわけだろう。本当はこんなのも、死ぬほど嫌に違いない。
 確かに、ほの暖かくしめった春の夜なんかには、あの不憫な部下たちを思いだしたりもする。それを裏も表も知り抜いたこの人に指摘されたって今更なんだというのだろう。
 何もかも知られている、というのはすなわち自分の鏡像以上のものではない。…所詮この人は、そうやって仕入れた綿密な情報を元に、良心の呵責とやらをついてくるのが常套なのだ。対象にそれがなければ、何の意味も成さない。
 思えばこの人も不憫な人だ。
 不意に熱が冷める。と同時にどっと疲労がおそってきた。身体を起こし、カワリーノに背を向けると、自分のネクタイを引き毟った。従順の象徴のようなこの記号は、事ここに至っては酷く不愉快だった。どちらにせよ通牒を渡されたのなら、もうしばらくは出社する必要もないのだろう。黒い仮面の着用については、あくまで自由意志が許される。…許されなくったって、そうおいそれと、待ってましたとつけてやるもんか。密かに貯めたお金で休暇をエンジョイするんだもんね。出来れば転職活動もするんだもんね。こんなもの、しばらく使わないうちに何かの決着がついちゃうかも知れないじゃないか。としたらあるいは使い損になりかねない。最後の切り札なんて、額縁に入れて飾っとくのが周到というものだろう。
 いざとなったらこの人が実力行使に出るかも知れんが、そんなことまで心配していたら何も出来ない。意気地無しとそしられようが、骨なしと罵られようが、俺は俺のやりたいようにやってやる。
「だって、ねえ…結局自分が一番かわいいじゃないですか。ねえ、カワリーノさん」
 
「…今、少なからずぞっとしたでしょ」
 ベッドの上に座り直している人物は、小首を傾げて、陰険そうに笑った。

 実際の所、すんでの所で酷い悲鳴を上げるところだったのは認める。
「わ…悪い冗談止めてくださいってば。だからそんなの私には…」
「貴方には…無駄なんでしたっけねえ。こんなの」
 薄い唇に刻まれる含み笑い。皮肉な言いぐさ。しどけなく解かれたボウタイと、無残に引き裂かれたスタンドカラーのシャツ。
 明らかな情交の後を残したままの青白い細身の身体は、さっきまで確かにそこにいた人のそれではない。 「あ…悪趣味にも程がある」
 カワリーノさん、そう呼びかければ悪い呪縛が一気に解けて、何もかも霧散してしまうのなら、そう願いたい。
「か…………完璧だよギリンマくん」
 でも、なぜかそうできなかった。

 苦しすぎる。
 胸苦しい。息を吸うのも恐ろしく苦しいぐらい。普段ならむしろ第二の皮膚のように自然に着こなせている筈のジャケットすらずしりと肩に重い気がして、あわててそれを脱ぎ捨てる。しきりと喉が渇き、何度も唾を飲み込んでも、何の気休めにもなりやしなかった。なんだかこのまま、へたり込んでしまいたい。
 かわいそうに、ギリンマの頬には涙の伝った跡がある。シャツのポケットに入っているハンカチを取り出そうとして、指先が例の黒いカードに触れる。
 ――知るものか。
 眼鏡を外し、顔を拭いてやる。子供みたいにおとなしく、されるがままになっているのまで。終わったら少し顔を赧らめて、強情そうに俯くのまで何もかもがそっくりだった。
 眼鏡を外した顔は酷く無防備で幼く、それゆえになんどか嫌がる彼に眼鏡を外させた。どうせそっちにはこっちが満足に見えないんだから、いいじゃない、と言うと酷い理屈だと言って困っていた。
 輪郭のぼやけた世界はむしろ真実のありように近い。君のほうがきっと、現実の真の姿をよく知っている。今、私が見てる世界のように、現実とは酷くぼんやりしたものなのだ。現に君が本物なのか、カワリーノによる偽物なのかすら、もう私には分からない。
 だからおそらく偽物の彼に、口づけをするのだって大してためらわずに出来るはずなのだ。
 少し体温の低い口腔。首筋のあたりから芳る、何かの香水の匂い。ウッディ・ノートと柑橘系の何か、それとミント。香水のことはよく分からない。…ご託だけは並べられるけど、このよく知った匂いがなんなのか、結局分からずじまいだった。メンズとしては酷く陳腐な組み合わせ。今でもたまに、人混みに似た匂いがして、ぞっとすることが何度かあった。きっと普通に、デパートや、…ヘタしたら薬局なんかで売ってる何かなんだろう。
 ああ。でもやっぱり、すれ違いの誰とも違う紛う方なきギリンマくんの匂いだ。同じものをつけてても、体臭なんかで変わるって言うけど。
 これほどこの、名も知らない陳腐な匂いが似合うのなんて君しかいない。