“秘密”

「君、なんだか顔色悪いよ」

 確かに変だった。顔色が悪い、というよりは、皮膚がかさついていた。一夜にしてなにか、酷い皮膚病にでもかかって、一度不完全に治ったみたいな、とでも言うべきか。
 いや違う。ステロイドの軟膏を塗りすぎたアトピーの肌というか。雨期を心待ちにするガマガエルの白茶けたそれと言うべきか。

 そんな比喩の応酬などどうでもいい。見るからに不健康そうな、魚で言ったら死ぬ手前とでもいうような土気色の顔色であいつが出社してきた朝は、じめじめ雨が降っていた。

 思えば幼い頃から、何一つ長続きしない。……鉄道模型。まんが収集。アニメですら1クールもまともに見続けられない。切手。プラモデル。CQ。プログラミング。
 それらの未完成の堆積が、今の俺を形成している、といえなくもない。何者でもない俺。俺様。半端な知識と、ジャンクフードで肥え太った、俺。俺が続けられたのは、不規則な生活と、俺自身であり続ける事の二つだけだった。
 いいや、あれだ、あれだけは続いていると言えるな。しかし果たして趣味なのかな。
 俺の部屋の一角に大きな水槽がある。中にはアマゾン川の肥沃な淡水を優雅に泳いでいるべき、青色に光る魚が5匹飼われている。とても神経質な奴で、普段はコバルトの原石のような、玄妙で少しケミカルですらある不思議な色で光っているのに、少しでも脅かしたり、どこかのバカが水槽をつついたりするだけで、青黒く変色し、はては心臓麻痺でも起こしたように、突然死んでしまいさえする。

 とにかくだ。あんたのその顔色を見て、俺はその魚を思いだした。

「別に何ともない」
 とかたくなにあんたは言い返す。
「どうしてよ。私だったら休暇にするわ、そんな顔色」
「俺がどんな顔してたっていいだろう、別に」
「お客様に失礼よ」
 にべもなく言い放つ。ねえガマオ、なんて振られたところで、俺にはどうにも答えようがない。
 アラクネアの言葉に釣られたか、あんたの目がごく機械的に、無感情に俺を見る。その角膜にすら、うっすら濁った膜があるような、不思議な視線だった。
「……おいおい、マジで大丈夫かよあんた」
「別に」
 言葉少なにあんたは答え、煩わしそうに目を閉じる。
「……病気じゃない。心配するな」
 追い払うように閃いた掌までもが、白茶けて白骨めいて見えた。

 そんな日に限って、あんたに頼らなければならない。
 あんたはカブを出してくれて、後ろに俺を乗せる。
「原付で良いから早く免許取れよ」
「…めんどくせえ」
 二人組でかからなければならない仕事は、さほどに多くはない。あっても現地にそれぞれ赴く、というほどに不仲な筈で、すんなり愛車の荷台を明け渡すなんて、やっぱりおかしい。
 とっとと終わらせるぞ、といったその仕事も、実に他愛ない。月末の支払いに渋る客への集金で、している事はやくざの格下と何ら変わらない。脅したりすかしたりして何とか当該金額の耳をそろえさせて、返り討ちにあったら軽い制裁を加えて、という愚にもつかない仕事である。正直、極めて体調の悪そうなあんたが頼りになるかどうか、不安だったものの、いつも通りの嫌みな口上も、落差の激しいキレっぷりも健在だった。口ではこんな仕事嫌だと言うくせに、こういうちんぴら仕事から頭脳労働まで、生真面目にきっちりこなしやがる野郎が、あんたなんだ。
 仕事をすべてこなした後、あんたはご丁寧に俺をすみかまで送り届けてくれた。
「…俺は明日から休むから、多分」
 後頼んだ、というとひらりと例の二輪にまたがる。かと思いきや。

 不意に貧血にでも襲われたかのように、ぱたりと力なくアスファルトの上に倒れ伏す。
「ちょっと…! どうしたんだよ」
「…駄目だ。…持たん」
「何が!」
 うっすらと開いた目は、青色のレンズ越しにも分かるほど、濁っている。まるで死人のようだ。
 緩慢な動作で、左手が伸びる。咄嗟に掴んで引き起こすと、痛そうに顔を蹙めて唇を噛んだ。
「やっぱり具合が悪いんじゃねえか」
「いや、…違う。でも家には帰れねえ」
「そうだろうさ」
 この期に及んで見栄を張るというのなら、おめでたい奴だが。
「悪いがほんの少しだけ休ませてくれ」
 部屋は綺麗にしてるんだろうな、という期待には、残念ながら応えてやれない。

 とても立ち上がれそうもないので、しかたなくあんたを抱き上げると、自分の下宿に帰る。寝室とダイニングは別れてはい、それなりに広くもあるのだが、まあ俺の性格からしてきちんと片付いているわけはない。
「最悪だな」
 一音節ずつ、ご丁寧にキッパリ区切って、あんたが呟いた。
「最悪のタイミングだ……寄りによってお前といるときに、なんて」
「悪かったな」
「…寝室を貸してくれ」
 しばらく休めば帰れると思う、とは言うが、正直潔癖性のあんたを俺の寝室になんか入れたくないのだ。だってあの部屋には。
 仕方なく俺は寝室のドアを開ける。
「綺麗にしてるじゃないか」
 綺麗にしているのは他でもない、例のあの魚の水槽があるからだった。
 部屋のカーテンは終日閉め切ってある。蛍光灯の青白い光のみが、ほの青く水槽の水を光らせている。循環器の幽かな水音が静寂を支配し、小さな箱庭を逡巡する青い魚は、あたかも絶望しきったかのように、赤い目を光らせている。
「ここを使うのか。使うってのかよ」
 贅沢だ。この魚の部屋には誰一人入れたことがないのに。
 それでもいよいよあんたの息は弱々しくなり、ますます肌色は灰色の砂地じみてきた。四の五の言ってもいられないかも知れん。しかたねえなあ、と俺は呟く。
「……済まん」
「いいか。奥の水槽は絶対に触るな。あと明日の朝、餌やりにくるから」
 そう言うと俺はあんたをあの部屋に閉じこめる。
 まああんたのことだ、考えのないイタズラなんてするとも思わないが。

 ひらりひらりと宝石じみた身体をくねらせる魚。魚は不思議な異星の円盤じみて、玄妙に変化する身体の縞模様と相まって、特殊なテクノロジーで組み立てられているようでもある。
 シクリッド系の熱帯魚、Symphysodon aequifasciatus。英語名でDiscus。なぜか他の魚には見向きもせずに、この種ばかりを養ってきた。ピジョンブラッドといわれる赤い目の色に、様々に色合いを変える体色。交配も試みたが、未だに成功しない。かつては何度も自分の不注意で、あたらに何体もの美しい魚を死なせてしまってもいる。
 
 そのためにワンルームを引っ越し、少し不便でもいいからと、部屋の別れた物件まで探した。この趣味が理解できない友人もなるべく遠ざけた。一度心ない奴に水槽を叩かれ、それだけで魚が死んでしまったことがあるから。

 隣の部屋は静まりかえっている。すでに日は暮れ、夜も深まった。
 あの様子だとすぐ、眠り込んでしまったのだろう。静まりかえった隣部屋からは、動きを休めない水槽のポンプの音しか聞こえてこない。
 あの人は――自分とは酷く対照的な『社員サン』は俺以上に神経が細かい。
 人並み以上に身だしなみを気にするし、いわゆる「民度の低い」がさつさを決して許さない。子供じみた悪ふざけをもっとも憎み、無神経な奴を蔑んでいた。だから俺を常に見下しているようで、俺としてはとてもむかついていたのだが。
 もし、あんたが俺だったなら水槽を叩いた奴をどうしたろうな。切り刻んで裏の川にでも流したろうか。いや、そもそも動物なんてあんたは飼わないだろう。嫌いだろうから。
 隣の部屋の気配を伺う。おもえば何であんたを隔離したんだろう。…何か予感めいたものが、なかったとは言えないが。

 そっとドアを開けてみる。掛け金が外れる音が、思いの外大きく響き、どきりとする。
「……おい、大丈夫かよ」
 あんたは薄い肩を半分ほどさらして、ベッドの上に横たわっていた。生まれる前の胎児のように、丸まって、ひっそりと目を閉じている。
 服は脱がれて、ベッドの足下のほうの床に、きちんとたたんでおいてある。ハンガーにはスーツが掛けてあった。
 近づく前は気付かなかった。首筋の皮膚が、僅かに裂けている。随分深い傷なのに、血が一滴も出ていない。そっと指で触ってみると、皮膚は音もなくさらに裂ける。
 ぎょっとして手を放す。傷に手を触れないように注意して、そっとシーツを捲ってみると、傷は背中のほうにも続いているようだった。
 ぜんぜん大丈夫じゃない。
 あんたの丸めた手の甲が、無意識に耳の裏のあたりを擦る。まるで硬い殻が脱げるように、後頭部あたりに続いていた傷が裂け、透明な皮が裏返しにめくり上がった。
 おそるおそる、脱がれた皮に触ってみる。意外に硬い。皮の剥がれたうなじは、透き通るように白く、青白い水槽の蛍光灯に光るようだった。
「う……ん」
 苦しげなうめき声が薄く開いた唇から漏れる。眉がしかめられ、鈎型に曲がった指がしきりと額をひっかいたが、皮は未だうなじの一部と、後頭部の途中までしか裂けていないらしかった。
 眠ったまましきりと苦悶の声を上げながら、身体をよじる度に、徐々に皮は剥がれていく。裂けた皮からはたまごの白身のような、透明な粘液が、長い糸を引いてしたたり落ちた。長い長い時間を掛けて、すっかり皮を脱ぎ終わると、あんたはほっとしたように、ぱたりとまた横になる。羊水のようなものにまみれた髪は所々束になり、睫は濡れて濃く見えた。昏々と眠り続ける顔は酷く幼い感じがしたし、閉じた目は生まれたてのヒヨコのようだ。
 何にせよ他人の脱皮なんて、初めて見た。

「…な…なんだよあんた、……まだ幼虫だったんだ」

 脱皮前の終齢幼虫。それもめでたく今日、卒業したというわけか。
「…何はともあれ、おめでとさん」
 さて皮のほうはなんていって押しつけようか、あとベッドの掃除も。
 ただでは帰さない。せめて豪華なメシでもおごってくれなけりゃ。
(了 20080308)