“社員旅行”


「…ちょっ……こんなところでまで」
 酷くご不満げに呟く君からは、旅館の名物らしい石けんの良い匂いがした。
 この旅館、泊まりの値段はかなり張るけど、随所にこういう、こだわりがあるらしいのだ。特別製の石けん、特別製の手ぬぐい、料理は山海の珍味を取りそろえ、風呂は温泉と来た。
 大広間では酒盛りが行われている。それに参加するのも悪くないけど、気を遣わなくちゃならない幹部連中の接待が必須になるので嫌気が差したのだ。普段はイヤミで大嫌いなカワリーノさんがなんだか恋しく感じるぐらい、胃がきりきり傷む連中なのである。よくよく見たら、顔見知りの幹部の人は誰もいない。きっとこんな旅行自体に参加していないんだろう。
 ブンビー、酒つげ、酒! だの、俺の酌が飲めねえってのか、だの、カワリーノさんの陰口だの、に、ああはいはい、はいはいって愛想良く答えなくちゃならないのだ。私はハイハイ人形かっつーの。仕舞いには宴会芸やれだの、“おでん”やれだの、野球拳だのと荒んできたので、トイレとか何とか言って逃げ出してきた。宴会芸はやったけどね。昔浅草の芸者さんにこの国古来のベタな奴を教えて貰ったのだ。あの子は今、どうしてるかな。

 ふて腐れた顔で湯上がりの髪の毛を拭いていたギリンマくんを見つけたのは、まあ砂漠に泉とは言わないまでも、ゴーストタウンに猫ぐらいの癒しにはなると思う。
「酷いと思いませんか? 頭から日本酒ぶっかけられたあげくにゲロ吐かれたんですよゲロ。挙げ句の果てに脱がされそうになって逃げてきましたよ。君出世できないよなんて言われたって知りませんよ、そんなこと」
 そう言うとギリンマくんは、青白い喉を反らせて手にしたミネラルウォーターをぐいと呷った。それで風呂場にいたわけだ。まあこっちも似たような惨状だけどさ。
「…結局これに出てるのって、君だけ?」
「そうみたいですよ。アラクネアは酷い目に遭うことが分かってて初めから行く気は無かったみたいだし。…ガマオは契約社員でしょ」
「……カワリーノさんとかいないのかしら」
「…あの人がこんなものにくると思います?」
「知ってるよ…言ってみただけだよ」
 もしかしたら、というか確実に、この旅行の存在をデスパライア様もご存じなかろう。
 ある部署が企画し、社内交流費だのという不透明な予算をつけ、贅の限りを尽くすのがこの旅行の意図だった。もちろん、「社内交流」というからには、全部署の誰かしらが参加するように強要される。まあもっとも、好んで参加する方々も当然いらっしゃるが、少なくともうちの部署や、幹部でもブラッディさんやらカワリーノさんあたりにはとうてい相容れない類の随分下世話な慰安旅行だった。
「ブンビーさんは大丈夫だったんですか」
 心底疲れた、というように溜息をつくと、ギリンマくんはすこし心配そうにこちらを見た。
「…ああー…別に。私はそのあたり器用だから」
 君だってこんなの、嫌いそうなのにね。アラクネアさんやガマオくんの事情を分かっているとすれば、きっと仕方なく覚悟を決めて、参加したのだろう。
 私一人じゃあまりに可哀想だ、とでも思ってくれたのかな。……もう一度水のペットボトルを呷るギリンマくんの横顔を見る。尖った耳も、日焼けを知らないような青い肌も、こんな場所にはいかにも不似合いだった。旅館の名前を染めてある浴衣って、誰にでも似合うものだと思っていたけど、ニューヨークに放り出されたドラキュラのコメディよりもミスマッチで、笑えるを通り越して、まるで仮にどこか他の世界から連れてこられて、仕方なく現世をさまよっているかのような、そんな悲壮感まで感じられる。
 まあ、似たようなものだよね。
 洗い立ての生乾きの髪の毛は柔らかく、小さな女の子のそれみたいにしなやかで、いつもより余計くるくるしていた。それをわしわしとかき回す。
「君はホントに、えらいねえ。イイコだね」
 しみじみと、つい本音が出る。
 君は一瞬意味を取りかねて、ぽかんとして私を見上げた。そうしてさっと頬を染めてうろたえたように目を反らしてしまう。
 ごめん、砂漠に慈雨。私涙が出そう。

 君がこういうのがだいっきらいだって事は、よく知ってる。
 いわゆる下卑たノリの飲み会も、みんなで仲良く! みたいな慰安旅行も両方。
 どちらにせよそういうノリを少しでも察知すると、面白いほどあからさまに、顔が引きつるのだ。それは見てるだけでも随分面白い、ほとんど気の毒になるぐらいの悲劇的な変化で、時折は笑いをこらえるのが精一杯だった。
 そんな顔をすればするほど、相手はおもしろがって大喜びするというのに、素知らぬふり一つ出来ないのは君らしい。いつも青白い顔をさらに青くして、目を白黒させて嫌がるものだから、つい相手の加虐心をそそるのだ。それはもう、エロティックな領域にまで達する、欲求になる。
 イッキ飲みの強要からお座敷芸まで、宴会でのそういう祭り上げなんて、エロスに直結しない例のほうが珍しい。宴会芸に性的な隠喩が数多く登場するのにも、同じような背景があるのかも知れない。酔っぱらいは、ターゲットを見つけ、こづき回し、性的な快楽を疑似体験する。私の方はもうそんなものだという諦めもあるし、適度に受け流す自信もあるけど、君はまだ若いのか、対処法もそんな裏に隠れた真意もよく知らない代わりに、自身がターゲットになりやすい事を、本能的によく知っている。
 たとえばカワリーノさんなんかも、君みたいな類の人なのかも知れない。嫌がるあの人をつるし上げて、恥ずかしい事をさせて泣かせてやりたいなんて思っている連中は、それこそ掃いて捨てる程いるだろう。誰もそれを実行に移せる命知らずがいないと言うだけで、無茶をした誰かが消されたという噂も聞かず、今のところ事は丸く収まっている。もっとも、あの人の方は私の個人的な意見からすれば、どんな要求をされたって、それが必要とあれば涼しい顔でやってのけるに違いないが。
 でもなぜだろう、あんな連中に始終へいこらしなくたって、君にはうちの部署特有の力があり、彼らに比べればよほど強い立場でもあるはずなのに、無根拠でも相手に権力をちらつかせられると君はあっさり参ってしまうらしい。
 もっと強かでも良いと思うけどね。
 そうした本来の君にそぐわない部分が、私は好きだ。

   途中の通路にあった、町中のそれよりも数十円割高のビールを自販機で買って、割り当てられた部屋に戻ることにした。
 といっても、4人部屋で、それぞれに別の部屋を割り当てられている。正直、一番脂ぎった中間管理職(客観的に見れば、私だってまごうかたなきそれだけれども)がたむろする自分の部屋に戻るのは嫌だったので、まだ若い社員だけでまとめられたギリンマくんの部屋の方に行くことにした。
「若いのは今日は多分、戻れないんじゃないですかね?」
 随分飲まされてもいたし、他の3人は全員、参加者の誰かの忠実な部下のはずだ。
「戻らないというより戻れない、というのが残酷で何とも可哀想だねえ。まあ、お疲れ。座りなよ」
「お言葉ですがブンビーさん、ここ私の部屋ですって」
 切り返す君の言葉もどこか勢いがなく、私達はそろって弱々しい溜息をついた。
「……ああいうのさあ、本来はそんなに苦手じゃないけど、……さすがに久しぶりにやらされると疲れるねえ。全く」
「ホントですよもう。……私は元から駄目です。本当に駄目、ああいうの」
 浴衣の足を投げ出して、綺麗に引き伸べられた布団に腰を下ろすと、缶ビールを空ける。布団と布団の間には充分すぎるほどの空きがあり、多少寝相が悪くても隣人を蹴飛ばす心配はなさそうだ。
 しばらくは他愛のない話をしながら、空しく缶ビールを啜っていた。宴会のざわめきは、けっこう離れたこの部屋にまで響いて、やーきゅうーするーなら、とか、だれそれのちょっといいとことか、聞きたくもないのに良く聞こえてくる。ああ、やっぱり野球拳やってるよ。浴衣に丹前のこのカッコじゃ、10回しないうちに素っ裸にされること間違いない。どうせあの部屋から抜け出した腰抜けの事など、だれも覚えていないから追い回される事はないとしても、この部屋にいつ誰が戻ってくるとも限らないのはちょっとだけ心配だった。
 何が心配なんだって。
 いやいや、ただ単に、二人で静かに、ゆっくりしたいだけだ。下心がなにかあるわけじゃない。
 ……下心ね。
 だってすでにこの子のことはもうよく知っている。そりゃもう、ダブルミーニングでよく。にっかつロマンポルノふうに言えば、「君のことはこの指が覚えていたよ」とかそういう意味でだ。だからこの子が自発的に、あの凄惨な宴会を抜け出してきてくれた事には密かに感謝してる。あんなあからさまなケダモノどもの間に置いてきぼりにして、何かあったら大変だ、とまではベタボレじゃないけど、どうかしてこの秘密がばれないとも限らない。
 別に一目で、私と君の組み合わせが分かるようになんてしていないけどさ。
 何か、多分コワイナーの使い方についての悩みとか、パルミエ王国とかについて、熱心に語っている君を眺める。口を開けると覗く尖った犬歯や、薄い唇。陰険そうに見える細い一重の目。華奢な鼻梁に頤。その顔を細い首が支え、浴衣の襟元からは鎖骨が浮き出た喉元がのぞける。
「……もう。ブンビーさんぜんっぜん聞いてないでしょ」
 呆れたように呟くと、君はまた缶のビールに唇をつける。
「ねえ。…………ここでやんない?」
 そう言うと君はお約束のように、飲みかけていたビールを吹いて、…しばらくむせた。面白い。
 安っぽい銀色の缶を握った君の手首を捕らえると、引き寄せて唇を重ねる。金色に熟れた小麦の匂いのする君の唇が割合にすんなりと捕らえられたので、あっさり私は気を良くした。
「ちょっと…! 待ってくださいってば」
 それでめでたく場面は冒頭へ回帰するわけだ。
(執筆途中 20080420)