“人形の死”


 後悔なんてひとかけらもなかった。

 彼は息子のようなものだったし、私は彼の生殺与奪の権利を確かに握っていたのだから。彼をほとんど死地から拾い上げたのは私だし、平生は全くと言っていいほど会話を交わさぬまでも、彼もまたそれを重々、身に染みて分かっていた筈だから。
 私が死ねと言えば死に、どこかへ行ってしまえといえばすぐにでも荷物をまとめていずことなく消え失せる忠実な人形であったのだ。私のメッセージを伝える彼の上司でさえ、それは良く知っていた。……それであっても彼は再三、自分の裁量でどうにかしてかの操り人形を私の手から奪い出そうとしていたようだけれども。
「私の名前は、決して呼んではいけませんよ」
 話しかけることはおろか、目を合わせてもいけません、と再三諭した。もとより異論一つなかったはずだ。それを条件になら、貴方に居場所を与えましょう、と確かに私は言い含めたのだ。
「今後個別にお会いするのもこれっきりです。貴方は直属の上司を通して、私の意志を図ればいい。…最も彼も一筋縄じゃ行かないだろうから、貴方は些細なことで、一喜一憂することになるでしょうけれども」
「…構いません」
 貴方の下に居られるのなら、と静かに彼は呟いた。
「……貴方を酷い目に遭わせるかも知れませんよ」
「承知の上です」
「……場合によっては、殺すかも知れない」
「もとより構いません」
 すべて従順な即答。あのころの貴方には果たして感情など、自己などあったのかすら疑わしい。
 まだ声変わりして間もないような細い声に、今よりもずっと透き通っていた皮膚。それでもすでに百年の辛酸をなめ尽くしたのではと思わせるほど年老いて疲れた精神。
 私は彼を購ったのだ。ようやく少年とは言えない年齢に達したばかり、という彼を、ごくごく簡単に、俗にまみれた金銭で買い上げた。その売買には悲しくなるほど、他の何をも支払われることはなかった。誠実も、生命も、身体でさえ。彼にはごくあからさまな、具体的な値段が付いて、…そうして私は彼の生命を手に入れた。
 でも、同じ事じゃありませんか。人を雇い入れるのだって、金銭でその人の生命の一部を購うのと同じ事。だとしたら、全部を買うのも、一部を買うのももはや同じだと思うのは、…やはり我々が我々たるゆえんなのだろうか。あまりにも安易な、非道徳的な境界線の無視。ほとんど子供と変わらない。道徳に縛られないのであれば、人身売買の一つだって、ごく当たり前に為されるのだ。それが合理でさえあれば。

 拾い物にしては彼はかなり上物で、……思いも寄らない親和性を持って、我々の組織に簡単にとけ込む。初めから彼は黒のポーンだったのであり、盤面には初めからaの7が彼のために開けられていた、というわけだ。

   もっとも彼らは後退はできない。

 初めに忠告などしなくても、彼には凄惨な死の結末しか、用意されていなかったのだ。
 それでも随分長い間のいろいろな事があって、彼がよっぽど人間らしくなっていた事に、私は驚いたものだ。少年を脱して間もないくせに、すでにカンオケに片足を突っ込んでいたような、乾ききった彼は、僅か数年のうちに良く戸惑い、良く泣き、そしてたまにぎこちなく笑う何か他の生物に変わっていた。おそらくはあの、彼の上司の仕業だろう。人がましい喜びなど教えてはならないと、初めに釘を刺しておいたはずなのに。
 それは彼にとっても気の毒な事なのだ。生け贄の子牛に徒に情を湧かせて、日夜優しい言葉をかけるなんて、それこそよほど残酷なことではないか。それもまた、あのいい加減な管理者に何度も忠告した言葉でもあった。

「そんなこと言われたってですね、彼を人形のように粗雑に扱う方が難しいですって」
 彼の言い分は、こうだ。曰く。実際に人を使う際にはモチベーションとか、雰囲気とかそんな他愛ない物が大切だなんて。
 そう言って彼のことをも籠絡したのだろう。
「私はお預かりするのであれば、その間に彼を成長させ、幾たびかの成功経験を積ませ、…我らのチームにその体験を還元する必要があったのです。だって他の社員は一般社員ですよ? …彼だけを裏焼きでもえこひいきしたら、彼らにも分かりますし彼らのモチベーションにもかかわりますし」
 貴方が彼を、ひいきしてなかったとは意外ですがね。
「…そ、それとこれとはまあ。人間なら仕方がないというか。……だってあの子、見るからにこう……」
 寂しそうで、いたいけで、……見ていてあまりに痛々しかったから。
 そんなことはよく知っていますし貴方とも何度も議論をしました。だから、あまりに凄惨だからそのまま葬るつもりだった。彼もそう望んでいた筈だった。それに貴方も同意をした。ここで突然、お為ごかしの同情を掛けられたって、彼にとっては迷惑なだけです。
 貴方のいい加減さにはほとほと嫌気が差した。
「確かにいい加減ですけどお…。私には私の考えが……」
「そう言う愚にもつかぬ事はうちの会社では通用しないのです」
 鼻先にそれを突きつけてやる。黒いカード。
「……ああ、やっぱり?」
「彼に渡しなさい。……彼がもしうろたえでもしたら、貴方のせいですから」
「……あと数ヶ月ほど、待ってあげません……?」
 だって夏だし。なんて無意味なことを彼は言う。
「夏休みとか、賞与の後で良いじゃないですか…」
「いけません。…ならばなおさらここでなくては」
 彼はこわごわ、両手の指先でつまむようにして、カードを受け取る。本当に、この男のほうに、これをかぶせてやりたい。
 もっとも、彼に果たして、これが被れるかどうかは分からないが。
「どんな顔してわたしゃ良いんですか…」
「どんなもなにも、関係ありませんよ。渡すだけで彼には分かるはずです。……初めのとおりであれば、渡すのに顔を選ばなくちゃいけないようなことはそもそもなかったんです」
 自業自得です、反省なさい。

 彼からは毎日欠かさず、業務日記が届いていた。
 子供の書くような、単純なものである。当日の天気に始まり、朝昼晩に食べたもの。経費で使った買い物。戦った相手。使った使役物に仮面の枚数。重要なところは相手になんと言い、それにどう相手が反応したかも、書いてあった。それは彼にとっては非常に重要なことであったから。それに、……直属の上司との、会話や行為。
 叙情は徹底的に排除され、事実のみに焦点を絞って、淡々と書き連ねてある日常。彼の家も、服も、身の回りのこまごまとしたものも皆、私はすべて把握できている。もともとあまり物欲のない少年だったから、おそらく物もあまり買いそろえていない。
 それでも、……ティ・カップを二つ貰っただとか、缶ビールを二つ、買っただとか。
 ごく最近の日記から漏れてくる、いたいけな人がましさが、ほとんど禍々しく、おぞましい死の臭気を伴うのは、彼がもともとは死の世界の人間で、…こんなささやかな幸せそうな日常のほうに、のたうち回るような苦しみを覚えるはずだ、という先入観があるからか。
 どちらにしろこれは、不穏な予感をかき立てる。
 彼に直接、私が何か言うことは出来ない。そう言う取り決めになってもいるし、何より私の記録は彼の身の上に一つも残っていてはならない。共犯である彼の上司だけがそのことを知るが、…決定的な、深く太いつながりの方は彼も知らない筈だ。
 直接手を下して、彼の躯に触れている貴方よりもよほど、私と彼との絆は深い。証拠に貴方はきっと、誰にも秘密だと言っている貴方との関係すら、律儀に私に報告して来ているのだから。私に隠し事をする気などない、というか、むしろ毎夜寝る前に、幸せなキリスト教徒が枕元で懺悔するように、この報告書を書きつづることがもはや習慣になっている。
 罪深い大人が告解室でポルノまがいの浮気の実態を神父様にするような赤裸々さとはほど遠いが、そこにしたためられている事は明らかな背徳であり、ともすれば私への裏切りと取られても仕方のないようなことだった。他愛もない恋愛、歯の浮くような口説き文句に、数度の夜。
 初めて恋人が出来た年端もいかない少女だって、母親に隠すような事も、そこにはきっちりと書きつづられてあった。しかしあくまで機械的に。誰がこう言った、それに自分はこう返答した。何かを貰った。朝まで一緒に寝た、云々。
 裏切られたからといって怒りを感じるほどでもない。が、正直なところ、心配ではあった。こんな体験が彼の心を決定的に崩壊させることにはならないだろうか、とか、仮にこれでどんどん人がましくなって、最後のところで未練を出されても困ってしまう、という類の心配ではあったが。不思議なのは、あの管理者がどうしてまたこの人形を、というところのほうで、それについては心理という物の永遠の謎かも知れない。  単なるシステムへの叛逆などという大層な物ではない。不可避な、乱数的な、予測不能な出逢い。
 ほとんど戦慄すら感じる、それこそ悪魔の采配。

 魂の抜けたような顔で、その男は砂浜に膝を抱えて、座り込んでいた。
「……そう言ったって、酷い話ですよ」
 めそめそ泣いてでもいたらしい、掠れたような声で言う。なんでボーナスまで待ってくれなかったんです? そしたら一度ぐらいは、海にでも連れて行ってやったものを。
「何度も言うようですけれども、そういう情けこそが彼には毒だったんです」
 非難がましくも彼は、大袈裟な喪服を着ていた。上等の絹のスーツは黒でまとめられ、白いワイシャツには黒いネクタイが結ばれている。
「完全に壊れてしまっている物にとって、日常を味わわせる事は無意味に等しいんです。…貴方だって彼については、少しだけしか知識を持ち合わせていなかったくせに」
 とたんにきり、と眉をつり上げて、何か反論しようとする男の鼻先に手をかざして、黙らせる。貴方の恥ずかしい口説き文句の一切合切を、私が良く知っている、といったら、貴方はどう思うだろう。
「どんなに親密な人間にも、秘密があるように、貴方だって彼のことを十全に理解してたわけじゃないでしょう?」
 たとえば彼の誕生日一つ、ご存じないんじゃないんですか?
 そう言うと彼は一つふん、と鼻を鳴らして、
「そんなこと、どうだって良いじゃないですか。…誕生日なら聞きましたよ。…奇しくもあの日の前日が彼の」
 ああ。…それはおそらく嘘だ。彼なりの。精一杯の。
 育ての親へのささやかなプレゼント、とでもいうのかしら。…どちらにせよ、他愛ない。昔の彼なら思いつきもしないような。
「……でお祝い、してあげたんですか? …良かったじゃないですか」
 それで彼も随分、救われたに違いないでしょうよ。
「そうでしょうとも」
 あの子、泣いてましたよ。いつもみたいに。
「私は私のやりかたでしか関われませんって、…初めに言いましたよねえ。…だからそんな恨めしそうな目をしないでくださいよ、カワリーノさん」
 そう言うと彼はようやく立ち上がり、スーツの尻についた砂をはらった。
 微風が髪をはためかせる。潮の匂いがする。晩夏の太陽がゆっくり水平線の向こうに落ちる。
 墓窖は海のほとりに掘られ、空っぽの棺には彼が書きためた日記のみが入れられた。
 命日が夏というのも、悪くない。……だって夏は、死者が地下から復活する季節だと、いうではないか。

(了 20080427)