“ごめんね”


 ずっとそうであれば良いなあ、と漠然と思っていた。

「私はやだね。君みたいな扱いにくい部下とか、どっかの姉さんみたいな厄介な部下とか、ぜんぜんやる気ない誰かさんみたいなバイトくんばっかりじゃ、やだ。ぜったいやだね」
 頬杖でふて腐れている上司の斜め前には、とうに空になったお銚子が、立ってるの一本、寝てるの一本、転がってるの一本、と死屍累々、たぐまっている。象の墓場とかそういうものを思わせるお銚子の死骸どもは、誰も下げてくれる人がいないものだから、そのままころころと無残な姿をさらすことになる。
 酷い言われようだけど、さほど腹も立ちもしなければ、恐縮することもないのは、自分もしこたま酔っているからだろう。今なら耳たぶを針で刺されたってさして痛くないに違いない。四分の一に目減りしたレモンハート・デメララの瓶から、直接口を付けて中身を煽る。火のつきそうなアルコールが地獄の食事みたいに食道を焼きながら胃の腑に収まる。明日はきっと、酷い二日酔いと胃痛に苦しむに違いない。
「じゃあどんなのがいいんですか。部署変わってカワリーノさんあたりの直属になります?」
「嫌っ!…それは絶対嫌!」
 ぶるぶる、と首を振ると、ブンビーさんはしばらく頭を抱えた。酔っぱらってる時にやる仕草としては、ふわふわ麻痺している脳みそに毒だったらしい。ういい、と唸ると、チェイサーと間違えてビールを煽っている。
「あたしゃね、ぜったい、ぜったい今なんかよりもっと出世してやるんだもんね! れきれば部長になって、常務になって、取締役になってぇ…」
 だんだん、というかようやっと、ろれつが怪しくなってきた上司は、言いつのりながらぐいと身を乗り出し、こちらをのぞき込んで来る。
「で社長になるんですか。…ばっからし」
「ばからしくないよ君! サラリーマンにとって出世は男のロマンなの! サクセスストーリーなの! …君にだって分かるでしょうに…」

 そりゃ、分かる。一生誰かの下であくせく働くなんて、考えただけでも憂鬱になる。それは確かだ。いずれは広い空の下で深呼吸をするように、自由な気分で暮らしてみたいものだ。

 でも、一方で俺は、ずっとこんな風な日常が過ぎればいいな、とも思っている。

 ものすごく典型的な鼾を掻きながら、ブンビーさんは眠ってしまった。
 そんなこと言って、ずっとあの部署、あの4人で回してきたんじゃないですか。
 もともとブンビーさんの部署はミツバチやアリの組織で言うところの兵アリ、要するにカジノやバーの黒服みたいな、困ったお客様専用相談室、という立ち位置だった。花形の広報やら、営業やら、ましてや堅実な製造やら管理やら法務…というセクションからはほど遠い闇の部署というわけだ。我々は時に低姿勢に、あるいは居丈高に、たまに暴力的に、怪しげなお客に対峙する。ある意味特殊営業部隊というわけだから、まあ重要なポジションではあるものの、問題を起こせばすぐに首を切られる、最もシビアな部署でもあった。
(君、良いねえ。ほんっとに性格悪そうで。…ぴったりだと思うよ、私の部下に)
 初めに掛けられた言葉もすぐに思い出せる。悦に入ったような、満足げなにやにや笑いの表情まで。
「それなのに…ブンビーさんがあんなこと言うの、俺はちょっとだけショックですよ」
 むにゃむにゃ、と何事か寝言を呟いている上司に苦笑し、ギリンマはそっと、その肩に毛布を掛けてやる。確かに扱いにくい部下である事は自認している。飲み込みも良い方ではないし、独断専行も何度も取ってるし、些細な問題なら何度も起こしている。それでも首を切られずに、今までこの会社に居られるのは、てっきりブンビーさんのおかげだと思ってたのに。
 いや。…おかげはおかげ、なのだろう。何度かこの上司に連れられて、方々に頭を下げに行ったこともある。ありゃ嫌なものだ。問題を起こしているのは俺の方なのに、私の管理不行き届きで、ご迷惑をおかけしまして、とこの人がやっている。普段はこんなに脳天気なこの人が。一緒に頭を下げながら、あんなに切ない気分になることは他にない。それでも気分に斑気があるのばかりは、どんなに気をつけても治らない。頭を下げに行くたんびに、今度こそは気をつけよう、と思うのだけれども。
 そのあたりでは自分が一番苦労を掛けてるな、とギリンマは振り返った。アラクネアはあのとおりのそつのない女だし、ガマオはしばしば職場を放棄はするものの、基本的に泰然としている。態度は悪いけど、そのあたりを咎める者は居ない。そんな部署だし。
 思えば一番問題のある駒は俺なんだ。
 何か、ほとほと疲れた事でもあったんだろうか。
 この人は酔っぱらうと本音が出る。さっきのうんざりしたような呟きも、となれば本心の一つだろう。…扱いづらい部下。
 きっと、カワリーノさんあたりに何か言われたに違いなかった。
 ギリンマはそっと上司の隣にうずくまる。同じように腕を枕にして、学生の頃から使っているやすっぽい簡易ちゃぶ台に突っ伏すように顔を伏せ、一心に眠りこける上司の横顔を同じ高さから覗いてみる。上司の眉間にはどだい似合わない深刻そうな皺が二本、刻まれている。きりりとつり上がっているのが魅力の目尻にはうっすらと皺。初めにあったときよりも、さらに数年、歳を取ってしまったこの人。

「…ごめんなさい。いっつもいつも迷惑ばかり」
 全然役に立たないし、かわいげもないけれど。

 それでも私は、貴方の部下でいたいんです。

 疲れ切った上司にそう囁くと、自嘲気味にくすりと笑って、ギリンマはそのまま目を閉じる。
 (了 090601)