"A Mad Tea Party"


――だって悪夢だもん。


How doth the little busy Bee
Improve each shining Hour,
And gather Honey all the day
From every opening Flower!

How skilfully she builds her Cell!
How neat she spreads the Wax!
And labours hard to store it well
With the sweet Food she makes.

In Works of Labour or of Skill
I would be busy too:
For Satan finds some Mischief still
For idle Hands to do.

In Books, or Work, or healthful Play
Let my first Years be past,
That I may give for every Day
Some good Account at last.

―― Isaac Watts

 とてつもなく大きくなってしまって、その上も下も分からなくなってしまった。途方もない喪失感と、なにやらもう後戻りできないことをしてしまった焦燥感。ああ、会社に戻らないと。×××さんに怒られてしまう。だれにだって?

 わんわんと耳鳴りがする。蜂の巣に頭を突っ込んだみたい。目の前に極彩色の、どこかで見たような、マス目に別れた模様がゆらゆら、揺らめいている。神の声のような、なにやら厳しく諭すような、嫌な嫌な感じの声が聞こえる。

 静かに見開かれた目が、じっとこちらを見つめている。紫煙が青く、青く漂う。やったことはないけれど、何かクスリで飛んでしまえば、こんなものが見えるかも知れない。加速度的に増す焦燥感、疾走して、世界を一周して、くしゃりとつぶれる。どろどろと溶け出す自分。それでいて磐のように硬い自分。蚤のように小さく、小さくなってしまったかと思えば、ザイルをつけて登頂しなきゃならないような、大山になっているような気もする。目を閉じると余計にくらくらして、布団をかぶっているのは果たして自分なのか、溶けた肉塊なのか、ごつごつした磐なのか分からなくなる。

 誰かが腕を押さえつける。大丈夫、しっかり、落ち着いて、と言っている。言葉は切れ切れになって、ちっとも意味が拾えない。ダイジョウブ、シッカリ、オチツイテ。

 ダイジョウブ…シッカリ…………。

「ギリンマくん!」

 がばり、と躯を起こすと、そこは綺麗な庭園だった。
「何してるのギリンマくん。今は三時だよ。午後の休憩の時間だよ? お茶にしないと」
 当然、と言うふうに、くそ真面目に言ったのは、どうも上司の人だった。ええと、そうだ、ブンビーさん。
 ブンビーさんはアリスの帽子屋がかぶっているような、値札の付いたシルクハットをかぶっている。りゅうとしたタキシードまで合わせて、そりゃもう似合ってはいたが、今更アリスなのは頂けない。
「何の会ですか。コスプレにしては地味じゃありませんか」
「何馬鹿な事を言ってるんだね君は。…あもう! 君の席はないよ!」
 おおそうだ。アリスならそう言われる筈でもある。アリス? アリスならね。
「君がアリスに決まってるじゃないの。乞食のカッコしたやせっぽちのアリス・リデルなんて、君そっくりだね」
 ひひひ、と嫌みな感じに笑うと、ブンビーさんはどっかりと椅子に腰掛ける。
 仕方なく開いている椅子に腰を掛けると、やっぱりブンビーさんはワインを勧めてきた。
「……要りません。どうせないんでしょ」
「よく知ってるねえ。その通りだ」
「そうまでしゃんとしてるなら、大丈夫でしょうよ。きっとこちらに戻っていらっしゃるでしょう」
 細くて高い、第三者の声が不意に混じり、反射的に背筋が伸びる。よく聞き覚えのある、細いくせに妙な威圧感のある声。男か女か分からない、あの声。
 その人は静かに微笑みながら、右手で自分のカップの耳をつまんでお茶をたしなみながら、左手を高く掲げてお茶を注いでくれていた。こぽこぽ、と琥珀色の液体が華奢なティーポットから白磁のカップに注がれる。少しは予測していたものの、本当に現れると正直引くというか、びっくりを通り越して引きつった笑いさえ出てきそうなその人は、七対三にぴっちりなでつけた黒髪からぴんと利発そうに立った長い耳を生やしていた。もちろん、耳の中にはふわふわの和毛が、外側の長い長い耳殻や、血管の透いて見える耳介やらには、短くて柔らかい毛が…生えている。普段通りの柔和な微笑のまま、ティーカップを差し出してくるので、おずおずと受け取ろうとすると、…ああやっぱり。ひょいとカップをそっぽに反らして、渡してくれない。
「…やっぱり、ここは貴方の庭園ですかね」
 ちっとも楽しくも面白くもないですよ、と憎まれ口を叩くと、三月兎は手を口元にかざして、さも嬉しそうにころころと笑う。そう言うのが似合う人だ。
「それはお褒めにあずかり。いえそんなことを言ってくれたのは貴方が初めてですよ」
 先ほど注いでくれたお茶を自分で飲んでしまった。残念。あの人が俺にお茶を汲んでくれるなんて、この世が始まって以来の椿事だったというのに。
「時計兎はどこへ行きました?」
 多分私はそれを探さなくちゃならないんです。
「絶望女王の召使いですよアレは。私の親戚でもあります」
 いっつも時間を気にして、おまけに偉そうに勅令を振り回して、と言ってるのがこの人だというのが本当におかしい。思わずくすくす笑ったら、三月兎も嬉しそうににっこり笑った、と思ったら容赦ない張り手が飛ぶ。
「いたっ! 失礼な!」
「テンプレートだからって貴方にそんなことを言う権利はありませんよ」
 口ぶりばかりは相変わらず柔和なくせに。…全く分からん。まあ夢の中だし。
「それにしても未だ寝て居るんですかガマオさん?」
 叱責するように声を尖らせる。黒い耳がくい、と正面から両脇を向く。良くできてる。ホントに。
 眠りネズミはカエルのような顔をしてめんどくさいと呟いた。白い丸テーブルに突っ伏しているくせに、器用に口の端でクッキーをかじっている。
「しっかたないなあ。今度は君の番だというのに」
「おや帽子屋さん、それは違いますよ。…どんなにがんばったって次は貴方のいい人の番です」
「わ、私の何ですって! 変なことおっしゃらないでくださいよカワリーノさん! ……三月はもうとっくに過ぎたんですってば」
「三月兎のホントの意味、ご存じですか? 発情期の兎。発情期。ブンビーさんもどうですか」
「お断りしますね! 断じて!」
「それは残念ですねえ…ねえアリス、貴方もそうでしょ」
 途方に暮れてうずくまっていると、くい、と服の端を引っ張られる。服はびらりとめくれて、中に穿いているひらひらのスカート下があらわになった。
「ぎゃあ!」
「おや品のない声ですねえ。少しは少女らしくなさいよ。いくらおてんばでもね」
「まっぴらです! わわわ私はまだ兎の方が!」
 だから何だってアリスなんだ!
「言ったでしょ、時計兎は私だって。貴方には過ぎた大役でしょ。さあ貴方も手伝って」
 いつの間にかガマオくんは随分小さくなってしまって、丁度確かにヤマネと似たような大きさになっている。ぽってりふくれた腹部が半ば、ティーポットに埋もれている。カワリーノさんとブンビーさんはじたばたしているスニーカーの足をつらまえ、ぐいぐいとさらにポットに押し込もうと奮闘していた。
「おぼれる。おぼれ」
「諦めちゃえばいいんですよ、諦めちゃえば」
「そうだそうだ。何も順番じゃなけりゃなんないなんてこと、ないんだし」
 これは酷い。あんまりだ。
 挿絵のアリスよろしく、ほっぺたを押さえる。反射的に神に祈る。おお、神様! 動作に意味はないけれど。
 ここはあれだ、急ぐフリして。
 否が応でも時計兎を追わなきゃなんない。

 おべんきょうも、しゅくだいも、おゆうぎも
 がんばっていちねんすごしましょ
 まいにちまいにちがんばれば
 はなまるいっぱい、もらえます

 あんなにがんばったんだから。捨て身でがんばったんだから。丸の一つもくれたって良いだろう。

「ギリンマくん! ギリンマくんしっかりして!」
「う……」
 
 酷い頭痛の次は、背筋から脳天に突き抜ける激痛。思わず絞り出すように呻くが、骨がバラバラに外れていると言うわけではないらしい。びりびりと痺れる感覚ながら、どうやら四肢は満足にそろっている。頭も取れてない。
 うっすらと目を開けるのまでが一苦労だった。
「…よ、良かった! 目が覚めた!」
「……それは私の台詞のような気がする」
 悪人のくせに馬鹿に人の良い上司は、包帯だらけの手をぎゅっと握って、涙ぐんでいる。大袈裟だな。
「あ、キチガイ帽子屋」
「失礼な言いぐさだね君は! 不眠不休で看病してやったってのに!」
 ほおずりしてくる顎や頬が妙にもしゃもしゃしているのはそう言うわけか。あまりのありがたみにしばらく呆然とした。……いや、いくら何でも少し大袈裟だ。ブンビーさんの大袈裟がうつった。いや正直なところ、ありがたみよりも痛みの方がすごかった。
「いたたたた…」
「痛いのは生きてる証拠だから。せいぜい感謝したまえ! ざまあみろ」
 酷いことを言う上司を押しのけ、くらくらするこめかみを押さえる。ついさっきまで見ていた夢を思いだそうとする。マッドハッター、三月兎、そうして、アリス。
 事もあろうにカワリーノさんにスカート下を見られた事を思いだした。なんてこと! 終始夢は夢だったのだが、ならばあの夢はどこから続いているものだろう。
 大けがして運び込まれたあたりから? それともそのずっと前から?
「……頭が痛い」
 深く考えれば考えるほど、その前の光景は霧散する。そもそもなぜ俺はこんな酷い傷を受けた?

「そんなこと、どうだっていいじゃないの」
 心底いい加減な調子でブンビーさんが言っている。
「忘れられるなら忘れちゃった方が良いこともあるさ。ねえ。……どうせ君も私も、儚い悪夢なんだから」
 明滅は乙女の気まぐれのままに。
 それは確かにそうなんだろうけど。

 ふっと心の深淵をのぞき込んじゃったような気がして、寒気がする。そうだ、なんだったっけ。ホントに。
 目の前が真っ暗になるような、そんな悪夢よりも、ついさっき、手の届くような近くで見たような極彩色のそれが良い。良いに決まってる。

(了 20080603)