赤頭巾ちゃん気をつけて!

 およそ芸術など不安から生まれるのかも知れない。

 年老いた父の部屋にかかっていたのは、奇妙な絵だった。25号ほどの風景画だ。普段は分厚いびろうどのカーテンに閉ざされたそれを、他愛のない好奇心から開いてみてしまった事がある。
 暗い森の中のような描写だった。
 ただし、デッサンは大幅にデフォルメされている。木々は木々としての形を失い、半ば道や、影にとけ込んでいた。その中を独りの少女が歩いている。……いや、少女なのか、少年なのか、小さくて華奢な人影が足を踏み出しているので、かろうじてそれと知れるばかりだ。
 抽象画に限りなく近い。かといって、具体を捨て切れているわけではない。小さな人影は柔らかそうなケープを纏っている、ようにみえた。そこからすなわち、少女であるという認識をしたのだが、同じ絵を違う人間が見たら、あるいはそれは少年だと思うかも知れない。
 小さな人は暗い森の一本道を歩いている。森の木々は淫猥に息づくようだった。なべて無骨な男の手に似せた枝をさしのべているようでもあり、先端から樹液を滴らせた、屹立した男性器のような支幹がまだ性を知らなかった幼い自分を戦かせた。そこにはまだ知ってはいけない物がすべてあり、美しい物、善い物、正しい物は何一つとしてなかった。

「何を見ている」
 見知らぬ人のような冷たい声が、彼を咎める。振り返ると、そこには普段は温厚な父が、恐ろしい形相で立っている。
「こっそり忍び込んでそのような物を見て」
 恐怖で思わず後ずさった。よく知っている父親ではない。この人は僕のおとうさんじゃない。
「ゆ、ゆるしてとうさま」
「悪いと知っているのに忍び込んだのかね。なんと卑怯な子だ」
 いやだ。
 また。
 卑しいものを蔑む目。ごめんなさい。僕は、嫌らしい、卑しい子です。

 すでに悪夢にすらならない。
 別の不快な、油太りしたような中年の男に追いかけられる、という恐ろしい悪夢から覚めたギリンマの脳裏に、真っ先にこの記憶が浮かんできた。セオリーに従い、頭から最後まで攫い直すと、上体を少し起こして時計を見た。やれやれ、まだ午前5時半だ。ぱたり、と再び横になる。
 未明の頼りない光が部屋に満ちている。幼い頃の辛い記憶というものは、案外簡単に記憶から抜け落ちるものだという。心的外傷だって、普段は記憶の奥底に箱に詰められて、何重もの鎖で封をされた宝物のように、鍵を掛けられているのがふつうだそうだ。
 ギリンマが選んだ方法は、あえてその悪夢をあたかも楽しい記憶のように、何度も何度も追体験することだった。塗り重ねられる度にその記憶は、安手の映画の看板みたいに、徐々に陳腐になってゆく。かくして事実は限りなく語り物に近くなり、過去の自分は誰か知らない他人になる。
 これは実際、手ひどい体験をした人間が、荒療治によくやる方法である。記憶を確かにするために、わざわざデータを取りそろえる。実物を確認する。より一層確かな記憶にするために、時には同じ行動をあえてとる。幼い頃に父親にイタズラされた子供がゲイになるのも、同じメカニズムだろう。そう言う比喩は不本意だけれども。
 そうだ。そもそも我々は恐怖を操るのが仕事なのだから、この手の処理はお手の物のはずである。これのおかげで、大概の恐怖は色褪せた。克服できるようになってしまった。と同時に、どこか大切なところが壊れてしまった。何を聞いても、見ても感動しなくなる病。夢を見られなくなる。しかして死に至る病、絶望に至る。
 考え込むあまりに無意識にシーツの端を噛みながら、ギリンマは思案する。そうだ。塗り重ねられた色はいずれ、限りなく黒に近くなる。
 偶然に心的外傷を操る術を自己流に身につけていた彼は、切れ者だった。ずば抜けていたと言っていい。それなりに立場を確立している先達たちは皆何らかの方法でこの術を身につけていた。――受け流したり、せせら笑ったり、情報や知識に変換したりする、術。自分の傷を塗り固める、呪術。
 だって。大人になるというのは、そういうことじゃないか。
 汚い物や、嫌な物や、痛い物を受容して、それを有効に利用するのが、大人だろう。
 少なくとも彼はそう信じている。それがよすがですらある。

「そう、たとえば――貴方はいつ、どんなときに『恐怖』を感じますか」
 あの人は、教師のような口調でそう言った。
 背筋の伸びた立ち姿に、柔和な表情。綺麗になでつけられた髪は元は緩い癖がついている。作り物めいた表情に、動作。デパートのマネキンを思わせる。
 一目で気に入った。気に入った、という表現はおこがましいのかも知れない。第一、この人は上司だ。幹部、らしい。
 本当に冷たい陶器のマネキンのような人だ。すらりとした肢体はどんな服でも、無難に着こなしそうでありながら、丁度人形がそうであるように、今身につけているダークスーツ以外の服など、何を着ても似合わない、と思わせてしまう。
 いささか抽象的な質問も、しっくりとギリンマの胸に染み渡った。常日頃から何度もシミュレートした思考がまさにそれだったから。
「飼い慣らしなさい。恐怖を。そうして嗾けるのです。普通ならそう簡単な事ではありませんけれども」
 にこやかに笑っていた目が薄く開く。一層冷たい表情になって、あの人は続ける。
「貴方のような人なら、そんなこと簡単にできます。きっとね」
 その目は父親と同じ、蔑みに満ちている。

 あの絵に何が描かれていたのか。今やギリンマは知識として知っていた。
 絵のタイトルは、「道程」。作者は不詳だが、18世紀ごろの作品らしい。筆致はお世辞にも上手いとは言えない。ありとある美術年鑑を繙いて、さまざまに調べたが、同様の構図の絵が腐るほど出てきた。いわゆる職人画家が、「売れる」構図の一つとして起こした物の一つだったようである。
 
 ただし、この絵は他の模倣作品と明らかに違ったところがあった。俗悪な表現を使うと、なにやら呪怨が込められている感じがする。いわゆる「呪いの絵」というやつだ。  それ関連で著名なものに、日本の水墨の幽霊画がある。オスカー・ワイルドは画家が妄執の限りを尽くして描いた絵に、魔力を込めた。美術品は洋の東西を問わず怪奇のモチーフとして登場しやすい。その手の恐怖は常に人間につきまとっている。芸術家というものの、造形という物の魔力を、未だに人間が信じている証拠だろう。  ギリンマが見たその絵に、ところがそんな曰くはつきまとっていなかった。父は素封家で、美術鑑定の目も確かだったはずだ。……もしかするとあまりの駄作をつかまされたいらだちから、この絵を封印していたのかも知れない、とも思った。
 しかも尚悪いことに、自らの記憶はこのあたりで定かでなくなっている。肝心のこの先に、鍵が隠れているような気がしてならないのに。…幼年期のもっとも嫌な記憶。…確かにここまでは全くといっても良いほど、たいしたことのない記憶だ。この先に遭った禍がなんだったのか、肝心なところが思い出せない。
 客観的なデータによれば――自らの記憶を頼まない、公式の記録によれば、父はギリンマが八歳の頃に亡くなっている。となれば、記憶は八歳以前のものなのだが、驚くべき事にそのころの幸せな、あるいは不幸な他の記憶は、どれほど思いだそうとしても全く思いだせなかった。
 人は三歳ぐらいから自我を持ち始める。どれほどぼんやりしていても記憶があったっていいはずなのだが。
 ギリンマが執拗に覚えているのは、あの恐ろしい父の顔と、大きな、なにかいかがわしい絵、それを覆っていたびろうどのカーテンの手触り、マホガニーのデスクの一番上の引き出しと同じぐらいの背丈だった自分のみだった。奇妙なことに、書斎に至る廊下や、自分の部屋などの記憶はどんなに思いだしてみようとしても、ディテールさえ出てこない。
 ああ、あと。
 ペインターナイフ。
 あの菱形の刃のついた、絵描きの家でよく見るアレだ。絵描き?
 使い込まれたペインターナイフのしっくりと手になじむ柄。絵など誰が描いていたのだろう?

「今日は酷い顔をしてるじゃないの」
「…そう、ですか?」
 寝不足ではあったが。
 未明に目が覚めてしまったのだ。…寝不足の筈である。悪い夢を見た。太って脂ぎった中年に追いかけられる夢である。悪夢としてのデキは非常に悪い。
「いつにもまして真っ青だよ君。…いつもお世辞にも血色良いわけじゃないけどね」
 体調管理は社会人の義務だよ? などとちゃんとイヤミにまで落とし込んでから、上司は言った。
 この間から出てる、例の端末の捜索案件だけどさ。
「どうもねえ。…別次元のような感じなんだよね」
 調査書に目を落とし、無意味にぱらぱらとページを繰りながら、手にしたボールペンの尻で額を掻いた。八方手詰まりというゼスチュアにも見えるし、単にめんどくさそうにも見えた。
 あの端末からは通信用の電波が発されている。だから、極論「こちら」にあれば所在は10メートル四方程度の誤差で絞り込めるはずなのだ。
 あれに関する資料は王国の法律書に書いてあった。当然通信電波帯も、使い方も、効用もすべてそこから拾った。もともとはコンフィデンシャルでも何でもないようで、あの次元の動物たちはよほどお気楽な日常を暮らしているらしい。 
「つい数日前まではあったの。こっちに。でもたもた別部署が追っかけてるうちに、消えた。もうここには全世界どこを探してもないとさ」
「見落としたんじゃないですか」
 GPSをあまり信用しすぎるのも、とギリンマは思う。
 巨額の投資をして衛星を一つとばしたからって、それを万能と思いこむのはどうか。うちの会社だけかも知れないが、兎角サラリーマンというのは、初期投資の額があからさまに期待度に比例する。
「蝶々がね」
「へ?」
 ちょうちょ? …咄嗟に具体化出来なかった。お花畑にひらひらと飛んでいる、あの昆虫だろうか?
「ほら。菜の花とか桜とかをひらひら…」
「…ああ。蝶ですか。先ほどまでの話との関係は」
「最後まで聞きなさいってば。…5匹の蝶々だそうだよ、君」
 この人は情報伝達能力に問題があるな。5W1Hの順序が間違って、まるで落語だ。……ブンビーによれば、…いや、彼の所に届いている報告書によれば、その5匹の蝶々が突如虹色の巨大な蝶になり、例のターゲットをアイテムごと、アブダクトして忽然と消え失せてしまったのだというのだ。
 どちらにしろにわかには信じがたい。……尤もあの端末がらみについては我々にはにわかに信じがたい事ばかりだけれども。どんな願いでもかなえることが出来る? そんなご都合の良い物体があるのなら、俺はいまこんなところにいない。
 突然降って湧いた異質なもの。異質なミッション。それが「ドリームコレット」とか言うふざけた具体物に昇華されたのは、果たして我々にとって幸福だったのだろうか?  そんなことは何かの決着がつかなければ分からない。……決着? 何の?
 まるで女の子のおもちゃみたいな。お姫様の幸せな夢のような。
「…そいつ、薬でもやってたんですか」
「それが普通の反応だよねえ。……正気らしいよ驚くことにね。なにこれ。だいたい蝶々がアブダクトって」
 ところが、例の社長秘書は、この報告をおざなりにしなかったようである。彼は何かを知っているようだった、とブンビーは語った。

「ことは一刻を争います」
 いつになく厳しい顔で、秘書は言った、という。幹部会議の席の話だから、ギリンマには想像しかできない。
「例の端末にはそれを守護する伝説の戦士がいると聞きます。…そんな物が現れたら厄介です。おそらく彼は別の世界に逃亡しました。……彼らにはそこを行き来する能力はありません。その蝶が、ワープツールとして用いられたと考えるべきでしょう」
「もうみんなぽかーんだよ。いや、上の方の人はしってる…のかなあ? ブラッディさんとか興味なさそうだったしなあ」
 ギリンマからしてみれば話すらしたことのないやけに気障な格好の上席の名前が出る。ということは部課長会議じゃなかったってことだ。本物の幹部会議にかかるような代物か。
「で。…パルミエに行き来が出来なければ、我々はどうなるんですか」
「いんや。難しいことじゃないよ。あとで手続き方法教えてあげるよ。…ライセンスさえあれば、あとは自由に行ったりきたり出来るよ」
 あとであっちの美味しいお菓子屋さん、教えたげる、とかいって、ブンビーは手元の資料を手渡して来た。その、蝶々に遭遇したという社員のまとめた報告書だった。

「…美味しいお菓子屋さん、ねえ」
 実際、『その世界』との行き来にはさほどの支障はなかった。普段行こうと思わなかったから何となく使わなかっただけで、言ってみれば、いくら縦横無尽に列車の路線が張り巡らされていようとも、一生降りない駅があるような物だ。行くことは容易だが、行きたいと思わないだけ。
 人が多い。活気がある。太陽がまぶしい。物があふれている。
 人酔いしそうだった。
 こちら専門の部署の業績が恐ろしく良いのは、そう言うことか。これだけ人があふれていれば、絶望のかけらを集めるだけでも相当な収益になろう。少し妬ける。先ほどライセンスの件で相談をしに、該当部署に行ってみたが、やけに俗悪な連中が多かった。
 こちらは享楽的だ。しかしここにその、伝説のなんとかがいるというのか。にわかには信じがたい。
 数回の『位置替え』を行って、ようやく人がましいところに着いた。静かで、本がたくさん並んでいる。どこかの学校の図書館らしいが、授業中のこの時間には、人影は少なかった。この時間にこんな所にいるような人間なら、むしろこっちに引っ張り込みやすい。
 気配は捕らえている。あの小さい獣のそれだ。向こうにもこちらの気配を捕らえる感性があるらしいから、軽率なことは出来ない。
 中学校の図書館にしては、やけに規模が大きい。この中の何冊が、読まれないまま長い眠りについていることだろう。
 棚を見上げると、いかめしい金字の本が何冊も並んでいた。一冊、手に取ってみる。キルケゴールの『死に至る病』。
 幸先が良かった。

「ただね」
 先ほどの話の続きである。
「…現在のそれの状態だと、ほとんど効用はないんですと」
 曰く、中にはいろいろな『サブアプリケーション』が入っていたらしいのだが、それがなぜかすべて初期化されている、ということである。
「…盗難防止用の非常コマンド?」
「うーん。…なんだろうね。で、この本体を手に入れたら、今度はその『サブアプリ』をさがさなくっちゃなんないの」
「公式サイトで?」
「ううん。…道ばたで」
 そう言うゲーム、出てなかったかしら。
「それが手間なのですわ、まあ」
 その数55というから、一仕事である。
「…でその『サブアプリ』の集め方は、…国民と我々しか知らない」
 実際やり方はいろいろだけど、とにかくアプリは「動物の形」をしていて、捕まえてその端末の中に入れるのだそうだ。何というファンシー。
 ギリンマが頭を抱えたのは言うまでもない。…今までの業務と違って、なんて子供の遊びめいているのだろうか。子供の遊びも、子供も嫌いだった。
 まあ、仕方がない。…もうパルミエがらみだと言うことが分かった時点で、こころのどこかであきらめてたから。いい。

 ギリンマは図書館の壁に掛かっている貴婦人の絵を見上げていた。
 18、19世紀あたりの陳腐な写実派の匂いがする。中世の宗教画だったらもっと効果的だろうな、などと考える。
 女はそのころの絵画にありがちに、少しふくよかな体をしている。顎のラインは柔らかく埋まり、緩くカールのかかった髪は、既婚者らしく結い上げられている。
 少し寂しそうな表情が、気に入った。きっとこの図書館に通う女子どもから、「夜歩く」とか「涙を流す」とか言われているに違いない。
 女の子の夢には、それらしい悪夢で答えてやるのが常道だろう。
「理想的だ」
 大いに満足して、ギリンマは独りごちた。

 もっとも、理想的だったのはそこまでだったのだが。

 結局例の「伝説の戦士」とやらは無事に現れ、あわやというところでギリンマの鼻先から例の端末をかすめ取っていった。いやちがう。まるで自分の物のように、しっかり所有権を主張しやがったのだ。しかもそいつ、寄りにもよって年端もいかない少女だ。少女。報告書をまとめるのに涙ぐんだのは久しぶりだった。

「やってらんない」
 バーのカウンターに突っ伏していると、わしわしと髪の毛をかき混ぜられた。
「君さー。手際悪いんじゃない? スタイルとかにこだわりすぎるんだよね。だいたい。…もっと効果的な方法で、さくっと出来ないの? 君のやり方には、どっか引っかかりがあるんじゃないの?」
 べしべし、と背中を叩かれる。痛い。心にも身体にも痛い。
「飲み屋でお説教食らいたくないです。さっき充分、こっぴどくアレされたじゃないですか」
「これはプライベートな助言だよ君」
 さんざん叱っておいて飲み屋に誘ってくれるのはありがたいんだけれども。
 でも、この人、無自覚なんだよね。自分が上司だって事とか、おごられた本人がどんなことを考えるか、とか、諸々に対して。
「だって」
 問題はどこだったのだろう。
「何度も言うようだけどさ、コワイナーって素材の心理的怖さは効能にあんまり関係ないの」
 大切なのはアイディアとイメージだそうである。素材そのものがなんに化けて、どう攻撃をするか、のイメージが大切なのだ、とはブンビーの言だが。
「あれって、自分が『怖い』とか『嫌だ』って思わないと駄目なんじゃなかったでしたっけ?」
「そう? 私は結構何でもいけるけどねー」
 自慢を聞いているんじゃない。

「使役物の原動力は『恐怖』ですよ」
 あの社長秘書から、そう言われた。スランプに陥っている時だった。
「他の方のマネをしたって、上手くは行きません。私達がアレを召還するには、使役者それぞれのなんらかの恐怖のきっかけがなければ出来ないのですよ」
 慣れればどんな些細なきっかけでも、使役物になり得ます、というと、仮面を一枚、取り上げる。指先まで優雅に洗練された動作だった。
「要するに、美術と同じです」
 
「よーするにさ、アートみたいな物だって」
 おんなじことを言っている。
 確かにそう言うことなのだろう。問題は、モチベーションなのだ。
 ブンビーのモチベーションは多分もっとビジネスライクなのだ。だから割となんだって使役化できる。
「やりかた換えようかな…」
「いいんじゃないの? 君の召還するコワイナーってなんか、どれもこれもかわいくて私は好きだよ」
 慰めにもなりゃしない。怖くもない、要するに弱いって事じゃないか!
「…一度社に戻りますね」
「なんでさ。一緒に飲んでくれないの?」
「もう充分飲んだじゃないですか…ちょっと気になることがあるから、帰ります。…済みません、気を遣ってくれて」
 君の相談ならいくらでも乗ってあげる、などとブンビーは言うが、……それとこれとは話は別だ。
「私のナイトメアとしての存続の危機なんですよ」
「ええ。…何それ」
 とにかくこのままでは進退にかかわった。……この葛藤を抜けなければ、今後はない。多分。


   ブンビーの助言は助言としてありがたく受け取ることにして、最近使役した物をリストにしてみた。過去の分析と、冷静な反省は今後のキャリアアップに非常に有用なのだ。
 モルスキンの手帳にメモをした日報を開いてみる。
 10月某日乳母車。
 11月某日ライティングデスク。
 12月某日クリスマスツリー。
 元旦犬小屋。
 1月某日ジャングルジム。
 同彫刻刀。
 同香水。
 2月1日ミラーハウス。
 2月3日タオル。
 そして、油絵。
  
 こうしてリストアップしてみると、あながち怖い物ばかりというわけではない。…たしかに、クリスマスツリーには嫌悪感がある。あと犬も大っ嫌いだ。怖い。ミラーハウスには昔嵌って出られなくなった事がある…と思う。このまま誘拐されて、手足を切り取られて売られるんだと思った。オルレアンの肉屋と話が混ざってる。
 最近のだと、2月3日のタオルなんて、何考えてるんだろうね。ショボ過ぎてやる気あるのか、我ながら疑ってしまう。このときはホテルの個室がフィールドだったのだ。高級ホテルのロゴが織り込まれたバスタオル、である。いや、風呂場で遭遇する怪奇ってのも、ありかとおもって。駄目だったけど。
 この中で割合上手くいったのは実は乳母車だった。
 乳幼児を人質にしたのである。我ながら極悪非道だが、今更そのようなことを嘆いても仕方がない。もう許さないだの最低だの言われ慣れている。心理より効能を狙えと言うのはそう言うことなのだろう。ブンビーさんもたまには良いこと言う。
 笑うこともまだ満足に出来なさそうな乳幼児が乗っていた乳母車。なぜかとてつもない嫌悪感を感じて、ギリンマはそれを使役物に選ぶ。なぜ? …乳母車はそのとき、置き去りにされていたのだ。
 周りに大人がいない、奇妙な乳母車。
 月齢6ヶ月に満たない、小さい赤ん坊。
(この子がどうなっても良いのか!)
 テンプレートの自分の台詞。吐き気を伴った。
 あの子はまだ「ママ」とも言えなかった。乳母車は恐ろしい力を持ち暴走したが、赤ん坊はなにやら透明のシェードに守られてすやすや眠っていた。任務を終えて、使役化を解除したあと、ほとんど自我の感じられない、透明な目がこちらを見た。
 やめてほしい。もう。
 何に対しての憤りなのか、赤ん坊へなのか、自分へなのか分からない。成果を上げ、久しぶりにブンビーにほめられたが、その日は定時で直帰した。酷く疲れていたし、熱っぽかったから。
 報告書のコピーは取ってある。自分なりの所見が書いてあり、曰く「任務遂行については滞りなく完了。なりふりを構わない行動は今後は慎みたいと思う」とある。至極ごもっともだ、畜生。
 我々だって適当にやっているわけじゃない。簡単そうに見えるだろうけれども。
「ああ…ほんっと、何がいけないんだか」

 酷く疲れて、溜息をつく。デスクの上につっぷすと、やがてうとうとと眠気が襲ってくる。
(君のやり方には、どっかひっかかりがあるんじゃないの?)
 ブンビーの言葉が最後に脳裏に閃いて消えた。

 たらいのシャボンが風に煽られている。良い匂いがする。
 緑色の物干し台の塗装は所々剥げ、いつも母親が洗濯物を吊すあの物干し竿はどこかにいってしまっている。オルゴールのもの悲しげな響きが聞こえる。弟が泣いている。
 青いビーチサンダルを履いた親指を、小さなバッタが飛び越える。芝生の敷き詰められた小さな庭に、ギリンマは立っている。たらいの中には弟のおむつがたくさん、入ってるんだろう。
「ママ?」
 シャボンはどんどんつぶれていって、暖かい洗濯液はみるみる冷えていく。日が暮れる。肌寒くなって家の中に入る。
 くすん、くすん、と弟がすすり泣く声がまだ聞こえる。前に教えられたとおり、お湯で溶かした粉ミルクを良くさまして、哺乳瓶に詰める。ことん、ことんと一段ずつ急な階段を上っていく。
 弟が透明な目で見つめてくる。このくらいの子供は滅多に笑わないんだ、ということはよく分かっている。たまに幻のように頬に浮かぶ微笑に、胸が締め付けられる。
 おい、お前。……お前はとっても、不幸なんだぞ。
 でも、大丈夫だ。にいちゃんがついているからな。

「君、大丈夫?」
 不意に声を掛けられて、目が覚める。いつの間にか、会社のデスクの上に突っ伏して寝てしまっていたらしい。変な体勢で寝ていたせいで、背中の筋肉が凝り固まっている。また嫌な夢を見た気がする。…全く、寝ているときの方が上質な仕事が出来てる気がする。ちぇ。
 深夜のビルにはもはやほとんど人は残っていない。電気がついているのもこの部屋だけで、時計の秒針の幽かな音までが聞こえるほどに静まりかえっていた。
 うたた寝をしていなかったら、死ぬほどびっくりしたろう。夜の会社は怖いものだ。…おざなりの怪異もつきものなことだし。もっとも、幽霊だの、亡霊だのとはほど遠い、この人の騒々しい気配には、奇妙な安心感さえある。この人は…これでかなりの部分、得をしていると思う。よく言えば賑やかしいし、悪く言えばうるさいオヤジだ。
「…ブンビーさん?」
「随分疲れてるみたいじゃないの。心配になったから様子見に来たら、うたた寝してるしね。風邪引くよ」
 というのは実は嘘で、というと、やけに酒臭い上司は腕時計を指さしてにやりと笑った。
「ごめん。また終電逃しちゃって。…君んち泊めて」
 会社に泊まれば良いのだ。もう一度目を閉じようとすると、こら、寝るな薄情もの、と罵られる。勝手な人だ。
「…奥さんに怒られないんですか。ほとんど週一でこんなコトしてて」
「もうさっき怒られたから、いいの」
 さて、何の夢を見ていたんだっけ。
 胸の奥あたりからわき出てきた不快感から暫時目を離すと、それは小さな蛇のように、こちらの隙を盗んでするりとどこかに隠れてしまう。
 ブンビーは鷹揚な動作でどっかりと自分の席に座ると、デスクの上に足を投げ出した。
「…君の作業が終わるまで待ってるよ。夜食もおごったげる」
「いりませんよ。おつきあいいただくこともありません」
 まあ、といって、結局自分の家に二人して行くことになるんだろうけど。


 君んちって本当に、いつ来ても寒々しいぐらい良く片付いてるよね、というのは上司の言である。
「生活感がある部屋って、落ち着かないんですよ」
「変なの」
 さっさと部屋のど真ん中に座ってしまうと、スーツの上着を脱ぎ出す。そこらへんにほっぽり出されるのが嫌で、取り上げてハンガーに掛けていると、かいがいしいねえ、まるで奥さんみたいだね、などと揶揄された。腹が立つ。
「…そういえば君、法学部だったんだっけね」
 しげしげと本棚を眺めながらブンビーが言った真意は、何となく分かった。六法やら判例集なんかにまじらせて、クロウリーの「魔術と理論と実践」とか、「トートの書」とか置いておくから、いやなつっこみ方をされるんだ。
「…全然業種が違うから戸惑うことばかりですよ」
「……思ったより出来るんだっけね君は」
 思ったよりとは何だ思ったよりとは。
 残念だねー、もったいないねえ、などと言いながらするりと魔術師の書いたトンデモ本を取り出して、ぱらぱらめくりながら、ブンビーはにやりと笑った。
「こんなもの読んだって、現状何にも変わらないよ。うちはスピリチュアル系でも何でもありませんからね」
 しかし。このイギリスのオカルトが書いた本は、それなりに読ませるのだ。ところどころ意味がわかんないのは取り敢えずほっておいても。…スペル間違いは笑えるから止めて欲しいが、なんだか著者のほどよい狂気を目の当たりにするようで変な臨場感がある。
「別にモノは膝の裏のフジツボでも、人面鯉でもなんでもいいんだから。…人間その気になったら畠のかかしにだって恐がれるよ」
「……貴方のそのバリエーションが、私には不思議でならない」
「そんなこと言ったって。……何にだって恐怖のエッセンスはあるでしょう? 君の感性が枯渇しているだけだよ」
 その一言にはずきんと傷つく。いっそこの人のこの無神経さのほうがほとんど恐怖だ。
「かっ…感性が枯渇したらやっぱり私、……ナイトメアおしまいじゃないですか…!」
「…ご、ごめん。泣かないの。……あーもう。ごめんったら。………そんなに君が思い詰めてるなんて…じゃなかった、ええと、ほんとごめん。そんなつもりじゃない。ええ、断じて違います。違うんだったら」
 おっしゃるとおり、本来ならば息をするように当然に出来て当たり前の事が出来なくなるのが、こんなに辛いとは自分でも思っていなかった。…むしろ、そんなことあり得ないと思っていたから。
 自分でもどれほど思い詰めていたのか、分かった気がした。
 あとそれと、…ええいくそ、それほどこの人に甘えていたというわけか。みっともない。情けない。
 駄目なOLみたいに泣きながら、泣いている自分の情けなさにさらに涙があふれてくる。唇を噛んでこみ上げてくる嗚咽をなんとか押し殺そうとしているのとか、掌に爪が食い込むほど手を握りしめているとか、もうどの一点を取っても、情けなくしかなかった。自分で問題の解決も出来ない大人なんて、みっともないだけだ。……絶世の美人だって言うならまだしも、男で。…男って損だね。女の子もいろいろ、苦労するだろうけど。……泣いたってかわいくも何ともない。
 呆れて立ち去っても良いはずのブンビーが、珍しく救いの手をさしのべる。
「だいじょうぶだって。…誰しも躓くことぐらいあるって。……よしよし、もう泣かないの」
 髪をかき混ぜるように、…まるで小さな男の子にするように頭を撫でる。まだ一度も会ったことのないこの人の家族とか、…そんなものを想像する。
 そっと背中を抱かれ、耳にキスをされる。ああ。そうだバカ野郎。
 この人にはこの人なりの下心があるんだっけ。
 人の気も知らないで…

 ゆっくり考えさせてくれ、どうか帰って欲しいと訴えたところで、それを聞き届けるこの人ではない。
「…今更何を言ってるの」
 毒気を孕んだ甘美な声が耳に直接吹き込まれ、すこし眩暈がした。

 この人が好きだというのは、……苦々しくも甘美なことだった。
 ともあれ思春期の少女ならいざ知らず、いい歳の大人がそれを味わうには多少のゆがみが必要不可欠である。いや、何もかもを若気の至りなどというオブラートにくるんで飲み下し、すべてを成長の糧に出来る彼らならばあるいは、さほどの苦みも味わわずに案外まっすぐ育つのかも知れない。懸命に築いてきたものを瓦解させられて苦しむのはむしろ我々大人の方だ。
 むしろ俺は、そろそろこの行為に慣れだしている所に密かな不安を感じる。掛け値なしに尊大で無傷で、そうして常に強かであってほしいと願う、要するに大好きなこの人と、よりによってこんな。
 悲しい溜息を奪うように、ブンビーが唇を塞いでくる。貪婪な接吻の後、躯幹に掌を滑らせて、肋や鎖骨の形をなぞられたが、そんなものを数え上げて何らかの羞恥を煽ろうとするのは貴方の勝手だとして、腰の上あたりに、腎臓の移植でも受けたかのように横凪に走っている背中の古傷を目を反らすように避けるのは、そろそろやめてほしかった。骨身に染みるのは、素っ気ない冷たさよりも、むしろこういう、予期せぬ心遣いのほうだ。
 この人の方はは果たして本気なのだろうか。それではあまりにおぞましい。不釣り合いだ。不適切だ。…気持ち悪い。……異様なのは俺だけで充分だ。
「…君って、厳格に教育された方?」
 思い詰められた危惧に密かに背筋を振るわせていたら、熱を増した手が頬にあてがわれる。優しげな仕草を予感し、なんだか見ちゃいけないような気がして目を閉じると、瞼の縁を丁寧に手入れされた親指が撫でていった。
「ちっとも」
「そお? 私には君は、まるで高次の規則にがんじがらめになった蝶々みたいに見えるけどね」
 そう言う子の親って、教育ママだったりするじゃない、
 だなんて。
 比喩は形而上的か形而下的のどちらか一方でお願いしたい。それに言うに事欠いて蝶々とは、皮肉か何かだろうか。蝶にはもうすでに、トラウマを抱く域に達しているというのに。
 似たり寄ったりってことなのかな。彼にとっては。
 目は閉じたまま、あの少女の事を考える。まっすぐで、純潔で清らか。そうして一片の影もなく明るい、あの女の子。
 彼女らと我々はそもそも同根なのか。とすればこんなに嫌らしい連理の枝もありはしない。
 憎いのか? 妬ましいのか? ……それとも恐ろしいのか。
 ほの暗い胎内に還るように、すでに煤けきっているであろう、今は上司でもない、ましてや恋人とかそういうのではあり得ない、でもさしあたりこうして縋らせてくれるただ一人の人の胸に縋る。
「落ち着いた?」
 髪を撫でてくれながらその人は言う。
 要するに立ちはだかったものがあまりに意外だったというだけだ。
 何も、何にも怖い事なんてない。

 怖がっているのはあの子の方だったじゃないか。
 ああ、ブンビーさんが「歌を忘れたカナリアは」なんて歌ってるよ。
 ……背戸の小薮に埋けられるまえに、何とかしなけりゃ。何とか。

   (まだつづきます。…たまにこっそり手直しはいるかも 最新版20080405)